[白文]7.子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、与朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之学矣。
[書き下し文]子夏(しか)曰く、賢を賢として色に易え(かえ)、父母に事えて(つかえて)能く(よく)其の力を竭し(つくし)、君に事えて能くその身を致し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖ども、吾は必ずこれを学びたりと謂わん。
[口語訳]子夏がこうおっしゃった。『美人(色)を好むのと同じようにして、賢人を賢人として尊敬しなければならない。父母に仕えて力の限りを尽くし、君主に仕えて身命を捧げ、友人と交わって一度言ったことを決して裏切らない。(こんな人物がいたとして)人は、『この人はまだ学問をしていないから賢人ではないというかもしれないが、私は、きっとこの人物を学問をした賢人だと評価するだろう(真の賢人とはこういう人物のことを言うのである)』
[解説]孔子の弟子の子夏は、姓を卜(ぼく)、名を商といい、曾子や有子と並ぶ高低であったが彼らよりも年少であったと言われる。子夏は、春秋末期に中原の大国・魏の文侯に仕えて、学術研鑽や教育指導に務めたとされるが、この文章は「儒教の価値観で真の賢人とはどのような人物であるのか?」を象徴的に示したものである。「賢賢易色」は、「賢者を美女のごとくに尊敬せよ」という当時の格言に由来するという説があるが、後世になって、男尊女卑の風潮(男性原理の色合い)が強まり「美女のごとく」ではなく「美女への愛情を昇華して」と解釈されるようになった。孔子自身は、美女(良妻賢母のイメージ)に対する愛情に特別な嫌悪や抵抗は持っておらず、そういった人間同士の愛情や優しさのようなものが、人道的な文明社会の根底にあると考えていたのではないか。