[白文]4.子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。
[書き下し文]子曰く、吾(われ)十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず(こえず) 。
[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『私は十五歳で学問に志し、三十歳で独立し、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使命を知り、六十歳で人の意見を素直に聞けるようになり、七十歳で自分の心の欲するままに行動しても人の道を踏み外すことがなくなった(行き過ぎた振る舞いがなくなった)』
[解説]「論語」の中でも非常に有名な篇であり、15歳で若くして学問に専心する決意をした孔子の志学の精神、耳学問や書物からの学鑽によって30歳で一人立ちしたこと、それ以降の人徳を積み重ねる人生を簡潔かつ的確に回顧して表現している。孔子は経済的に貧困な貴族階級に生まれたので、正式な学問体系に則って学問を積み重ねたわけではないが、理想とする周(西周)の王道と礼制を政治に復古させるために周の政治体制と礼楽の精髄を学んだ。
古代中国の封建社会では20歳で成人として認められ、30歳で妻帯して社会的に自立するのが普通であったが、孔子もその社会慣習に拠って30歳で立ったと考えられる。40歳で惑わないという事については、孔子の波乱の人生と故国・魯の政治状況を省みると、魯の正統な君主である昭公への忠誠と忠誠を貫くために帰国することを迷わないと解釈することも出来る。孔子が理想としたのは、飽くまで、歴史的な正統性をもつ有徳の君主による政治(王道)であり、実力主義の権力闘争を勝ち抜いた貴族諸侯による政治(貴族)ではなかった。
当時、魯国の君主である昭公は、有力貴族である三桓氏(孟孫・叔孫・季孫の有力な家臣)に圧倒されて国を追われていたが、孔子は三桓氏による魯の統治の正統性を認めることはなかった。孔子が50歳になって知った天命とは、自分に与えられた寿命・才徳・機会では、自分が目指した「魯国の王道の再建」は不可能であるという宿命のことであると言われる。この篇は、私達が人生を如何に生きるべきかという「一般論としての人生の指標」として読むこともできるが、孔子の実際の人生を踏まえて読むと「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」として解釈することもできる。