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『論語』の八イツ篇-24
日期:2014-02-25 18:07  点击:398
[白文]24.儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、従者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天将以夫子為木鐸。
 
[書き下し文]儀の封人(ふうじん)、見えん(まみえん)ことを請いて曰く、君子の斯(ここ)に至れるもの、吾(われ)未だ嘗て(かつて)見ることを得ずんばあらずと。従者これを見えしむ。出でて曰く、二三子、何ぞ喪する(そうする)ことを患えん(うれえん)や。天下の道なきこと久し。天は将に夫子(ふうし)を以て木鐸(ぼくたく)と為さんとす。
 
[口語訳]衛の儀の国境役人が(孔子に)面会したいと願って言った。「ここを通過した人で立派な君子である人と、私はまだお会いしたことがないのです。」そこで、孔子の従者が、国境役人を孔子と会わせてあげた。孔子の元を退出してから国境役人は言った。「諸君、亡命して流浪しているからといって、どうして心配することがあるだろうか(いや、心配する必要などない。)天下に道義が行われなくなって久しい。天(天上の神)は、今にもあの先生(孔子)を、天下に正しい道義を打ち立てるように諸侯にふれ回る木鐸にしようとしているのだから。」 
 
[解説]「封人」とは国境線の防衛に当たっている役人のことであり、忠恕と礼節を備えた真の君主である孔子に見えた(まみえた)国境役人の感動と興奮を表した部分である。国境役人は故郷の魯を追われて亡命している孔子の弟子たちを励ますように、孔子の稀有な才能と天下を支える人徳について賞賛する。故国を失ったことは悲しむべきことだが、天下の逸材である先生(孔子)に従っている以上、あなた達は何も心配することなどないという訳である。「木鐸」とは、現代でもマスメディアの良心と賢慮に期待して「社会の木鐸」という言い方があるが、古代中国では政府が民衆に何かを周知するときに鳴らした「木の鈴」のことを木鐸と言っていた。政治の先行きや社会の問題を客観的に見通すことの出来る知識人や文化人を指して、「社会の木鐸」ということもあるが、情報革命(IT普及)の進展によって、マスメディアや知識人への素朴な信頼が崩れかけており、社会の木鐸として完全に信用できる権威は成り立たない状況にある。

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