[白文]26.子曰、居上不寛、為礼不敬、臨喪不哀、吾何以観之哉。
[書き下し文]子曰く、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為して敬まず(つつしまず)、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てかこれを観んや。
[口語訳]先生が、言われた。『高位高官にありながら、寛容の徳を持たず、礼制の実践をして敬虔な気持ちがなく、葬式に臨席して悲しまないのであれば、どのようにしてその人を評価すればよいのだろうか(いや、どこにも見るべきところなどない。)』
[書き下し文]子曰く、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為して敬まず(つつしまず)、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てかこれを観んや。
[口語訳]先生が、言われた。『高位高官にありながら、寛容の徳を持たず、礼制の実践をして敬虔な気持ちがなく、葬式に臨席して悲しまないのであれば、どのようにしてその人を評価すればよいのだろうか(いや、どこにも見るべきところなどない。)』
[解説]人臣の位を極めて栄耀栄華をほしいままにしている人たちが、人民に対する寛容の精神を持たず、まごころからの思いを込めずに形式だけの礼を実践し、葬式に赴いても哀悼の感情を表現しない現状を孔子が嘆いている部分である。大きな権力や裁量を持てば持つほど、人は謙虚に寛容に振る舞い、自分の政治に従っている民衆の幸福を願って行動しなければならないという儒教の徳治の理想がよく表れている。