五 わが通ひ路(ぢ)の
昔、男ありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門(かど)よりもえ入(い)らで、童(わらは)べの踏みあけたる築地(ついひぢ)のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、度かさなりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けどもえ逢はで帰りけり。さてよめる、
人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。
二条の后(きさき)にしのびてまゐりけるを、世の聞えありければ、兄人(せうと)たちのまもらせ給ひけるとぞ。
【現代語訳】
昔、ある男がいた。東の京の五条通りあたりに住む女に、たいそう人目を忍んで逢いに行っていた。人に見つからないように、門からは入れず、子どもたちが踏みあけて通路にしていた土塀のくずれた所を出入りしていた。ここは人が始終いるわけではなかったが、男が通ってくるのが度重なったので、邸の主人が聞きつけて、その通り道に毎晩見張り番をおいた、そのため、男は訪ねていっても女に逢うことができずに帰ってしまった。そして詠んだ歌、
<人に知られないように通う私の通り道で見張りをしている番人よ、毎晩毎晩よく寝てほしいなあ。>
と詠んだので、女はたいそう心を痛め悲しんだ。それで邸の主人は、男が通ってくるのを許した。
このお話は、二条の后高子に人目を忍んで訪ねていったのを、世間の評判を気にして、后の兄たちが防衛おさせになったということだ。