九十 桜花
昔、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらば明日物越しにても」といへりけるを、限りなくうれしく又うたがはしかりければ、おもしろかりける桜につけて、
桜花けふこそかくもにほふともあなたのみがた明日の夜のこと
といふ心ばへもあるべし
【現代語訳】
昔、ある男が、つれなくて少しも相手にしてくれない女を、何とかして自分のほうに気持ちを向かせたいと思い続けていたところ、女がその気持ちに心が動いたのか、「では、明日、几帳か簾(すだれ)を隔ててでもお逢いしましょう」と言ったので、男はとても嬉しく思い、また一方で女の言葉が本心かどうか疑いの気持ちを抱かずにいられなかったので、美しく咲いた桜の枝につけて、
<桜の花が今日はこんなに美しく咲いていても、明日の夜にも同じかどうかはあてにできません。>
という歌をおくったが、長い間つれなくされてきただけに、このような気持ちになるのも当然だろう。