九十九 見ずもあらず
昔、右近(うこん)の馬場(うまば)のひをりの日、むかひに立てたりける車に、女の顔の下簾(したすだれ)よりほのかに見えければ、中将なりける男のよみてやりける、
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮らさむ
返し、
知る知らぬなにかあやなくわきていはむ思ひのみこそしるべなりけれ
のちは誰(たれ)と知りにけり。
【現代語訳】
昔、右近の馬場で騎射の試しが行われた日、向かい側に立ててあった車の中に、女の顔が下簾のすきまからかすかに見えたので、近衛の中将だった男が歌を詠んでおくった、
<全然見なかったわけではない、かといってはっきり見たのではないあなたが恋しくて、今日はわけもなくぼんやり物思いにふけっていますよ。>
女が返し、
<見知るとか知らないとか、どうしてわけもなく無理に区別して言えましょうか。ほんとうに知り合って逢えるのは、ただ熱烈な思いだけが道しるべとなるのです。>
後に、ついに女が誰であるかを知って逢うようになった。