【帰 京】
(一)
十六日(とをかあまりむゆか)。けふのようさつ方、京へ上るついでに見れば、山崎の小櫃(こひつ)の絵も、曲(まがり)のおほぢのかたも変はらざりけり。「売り人の心をぞ知らぬ」とぞ言ふなる。かくて京へ行くに、島坂にて、人あるじしたり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちて行きし時よりは、来る時ぞ人はとかくありける。これにも返り事す。
夜になして京には入らむと思へば、急ぎしもせぬほどに、月いでぬ。桂川(かつらがは)、月のあかきにぞ渡る。人々のいはく、「この川、飛鳥川(あすかがは)にあらねば、淵瀬(ふちせ)さらに変はらざりけり」と言ひて、ある人のよめる歌、
ひさかたの月におひたる桂川底なる影も変はらざりけり
また、ある人の言へる、
天雲(あまぐも)のはるかなりつる桂川袖をひでても渡りぬるかな
また、ある人よめり。
桂川わが心にも通はねど同じ深さに流るべらなり
京のうれしきあまりに、歌もあまりぞ多かる。
(現代語訳)
十六日。今日の夕方、京に上るおりに見れば、山崎にある店屋の看板の小櫃の絵も、曲にある大きな釣り針の看板の形も、昔と変わっていない。「売る人の心はどうだろう」と言っている人がいる。このように京へ近づくと、島坂で、ある人が歓迎の接待をしてくれた。そんなの必ずしもしなくてよいことだ。京を出立した時より、帰って来る時に、とかく人はあれこれするものだ。この人にもお礼をした。
夜を待って京に入ろうと思い、ゆっくりしていると、月が出てきた。桂川を、ちょうど月の明るい時に渡った。人々が「この川は、飛鳥川でないので、淵も瀬も少しも変わっていない」と言い、ある人が詠んだ歌、
<月に生えているという桂の木。その名と同じ桂川は、底に映る月の光までも変わっていない。>
また、ある人が言うのは、
<土佐では空の雲のようにはるかに遠かった桂川。その川を今、袖を濡らしながら渡ったことよ。>
また、ある人が詠んだ。
<桂川は、私の心に通じてはいないけれど、私が今日を懐かしむ心と同じ深さで流れているようだ。>
京にたどり着いたうれしさのあまり、歌の数もあまりにも多いことだ。