◆ 夜半、もののけ現われる
(二)
風少しうち吹きたるに人は少なくて、候(さぶら)ふ限り皆寝たり。この院の預かりの子、むつましく使ひたまふ若き男(をのこ)、また上童(うへわらは)一人、例の随身(ずいじん)ばかりぞありける。召せば、御答へして起きたれば、「紙燭(しそく)さして参れ。随身も弦(つる)打ちして、絶えず声(こわ)づくれ、と仰せよ。人離れたる所に、心解けて寝(い)ぬるものか。惟光朝臣(これみつのあそん)の来たりつらむは」と、問はせたまへば、「候ひつれど、『仰せ言もなし、暁に御迎へに参るべき由』申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦(ゆづる)いとつきづきしくうち鳴らして、「火危ふし」と言ふ言ふ、預かりが曹司(ざうし)の方に去(い)ぬなり。内裏(うち)を思しやりて、「名対面(なだいめん)は過ぎぬらむ、滝口の宿直申し今こそ」と、推し量りたまふは、まだいたう更けぬこそは。
帰り入りて探りたまへば、女君はさながら臥(ふ)して、右近は傍らにうつ伏し臥したり。「こはなぞ。あな、ものぐるほしのもの怖ぢや。荒れたる所は、きつねなどやうのものの、人おびやかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。「いとうたて乱り心地の悪(あ)しうはべれば、うつ伏し臥してはべるや。御前(おまへ)にこそわりなく思さるらめ」と言へば、「そよ、などかうは」とて、かい探りたまふに息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、われにもあらぬさまなれば、いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめりと、せむかたなき心地したまふ。
(現代語訳)
風がわずかに吹いているうえに、人気も少なく、仕えている者は皆寝ている。この院の留守居役の子供で、源氏が親しく召し使っておいでになる若い男と、殿上の童一人と、いつもの随身だけがいる。お呼びになるとお返事して起きてきたので、「紙燭をともして持って参れ。随身も弦打ちをして絶えず音を立てていよ、と命じよ。人気のない所に、気を許して寝ている者があるか。惟光朝臣が来ていただろう、それはどうした」と、お尋ねになると、「参っておりましたが、『ご命令もない、早暁にお迎えに参上する』と申して、帰ってしまいました」と申し上げる。この、こう申し上げた者は滝口の武士であったので、弓の弦をまことに手馴れたようすで打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、留守居役の部屋の方角へ去っていく。源氏はこの声を聞き、宮中を思いやりになって、「今ごろは名対面は過ぎただろう、滝口の宿直奏しはちょうど今ごろだろう」と、ご推量になるのは、まだ、さほど夜も更けていないのか。
源氏が元の場所へ戻って、お確かめになると、女君は前のまま臥していて、右近は傍らにうつ伏していた。「これはどうしたことか。何とばかばかしいほどの怖がりようだ。荒れた所では、狐などのようなものが、人を脅かそうとして怖がらせるのだろう。私がいるからには、そんなものには脅されないぞ」と言って、右近を引き起こしなさった。右近は、「とても気味悪くて、ひどく気分も悪うございますので、うつ伏していたのです。ご主人さまこそ、ひどく怖がっていらっしゃるでしょう」と言うので、源氏は「そのことよ。夕顔はどうしてこんなに怖がるのか」と言って、手探りでご覧になると、息もしていない。揺すってご覧になっても、ぐったりとして正体もないようすなので、「ほんとうに子供っぽい人なので、物の怪に魂を取られてしまったらしい」と、どうしようもない気がなさった。
(注)名対面 ・・・ 清涼殿で午前十時ごろに行われる点呼。
(注)宿直奏し ・・・ 名対面のあとに滝口の武士が弓の弦を鳴らして姓名を名乗ること。