その所のさまを言はば、南に懸樋(かけひ)あり、岩を立てて水をためたり。竹の木近ければ爪木(つまぎ)を拾ふに乏しからず。名を音羽(おとは)山といふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。
春は藤波(ふじなみ)を見る。柴雲のごとくして、西方(さいはう)ににほふ。夏は、ほととぎすを聞く。語らふごとに死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声耳に満てり。うつせみの世を悲しむほど聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし念仏もの憂く、読経まめならぬときは、自ら休み、自ら怠る。妨ぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、ひとりをれば、口業(くごふ)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らむ。
もし跡の白波にこの身を寄する朝(あした)には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて満沙弥(まんしゃみ)が風情を盗み、もしかつらの風、葉を鳴らす夕べには、尋陽(じんやう)の江を思ひやりて源都督(げんととく)の行ひをならふ。もし余興あれば、しばしば松の響きに秋風楽(しうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲を操る。芸はこれつたなけれども、人の耳を喜ばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、自ら情(こころ)を養ふばかりなり。
【現代語訳】
その辺りのようすを言うならば、南に懸樋があり、そこに岩を立てて水をためてある。林の木が近いので、薪(たきぎ)にする折れ枝を拾うのに不自由はしない。この辺りの地名は音羽山という。まさきのかずらが、人の通る小道を埋めている。谷には木が茂っているが、西のほうは開けて見晴らしがよい。阿弥陀如来の西方浄土のさまを念じる手がかりがなきにしもあらずだ。
春には、藤の花を眺める。極楽往生すれば西方に現れるという紫の雲のようであり、極楽浄土がある西方に咲きにおう。夏には、ほととぎすの鳴き声を聞く。彼らと語り合うたび、死んだら冥土の道案内をしてくれるようにと約束する。秋には、ひぐらしの声が耳じゅうに満ちあふれる。その声は、はかないこの世を悲しんでいるようにも聞こえる。冬には、雪をしみじみと眺める。雪が積もっては消えるようすは、怠け心で心に積もり、改心して消えていく罪障にたとえられるようだ。もし念仏に気が進まず、読経に集中できないときは、自分勝手に休み、自分勝手に怠ける。それを妨げる人もいないし、恥ずかしく思うような相手もいない。わざわざ無言の行をしているわけではないが、たった一人なので、口の災いを招くこともない。必ずしも仏の禁戒を守ってはいないが、そもそも禁戒を破るような環境がないので、何によって破ることがあろうか。
もし、船が通った跡に立つ白波にわが身を思いくらべる朝であれば、岡の屋に行き交う船を眺め、沙弥満誓の風流のわざを盗んで歌を詠み、もしまた、かつらを吹く風が葉を鳴らす夕べであれば、白楽天が琵琶の音色に耳を傾けたという尋陽江を思い浮かべ、源都督が琵琶を弾じたのをまねる。もし興趣が尽きなければ、たびたび松風の音に秋風楽を合わせて演奏し、水の音に合わせて流泉の曲を奏する。腕前はつたたないが、人に聞かせて喜ばせようとするものではない。一人で琵琶を弾じ、一人で歌って、自らの心を慰めるだけだ。
(注)まさきのかづら ··· 常緑のつる草の総称。