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第十六章:中国名人~老聃
日期:2015-01-14 11:45  点击:443
 老聃は姓は李、名は耳で、「老子」と呼ばれる。その出生と死去の年月については不詳だが、春秋(紀元前770~紀元前476年)末期楚の国の人だということがわかっている。言い伝えによると老聃は背が高く、福耳、大きな目、大きな額と厚い唇という顔をしていたそうだ。老聃は書物を管理する周の「守蔵室之史」という職務を務めたことがある。そのため、非常に豊富な知識を持ち、当時から名声は大きかった。儒教の創始者・孔子も若い頃にわざわざ老聃を訪ね、周の時代の礼儀などについて教えを請うた。後に、周王室が日々衰えていくのを目にした老聃は当時の都・洛陽を後にした。途中、函谷関を通りかかった時、代表作の『道徳経』上下篇を著作した。その後、牛の背に乗り国境を出た。行き先は誰も知らなかった。60歳まで生きていたという説もあるし、200歳まで生きたという説もあるが、かなり長寿であったと言われている。これは老聃が雑念を払い欲を捨て、道徳の道を修行し続けたことに深く関係している。 
 
 『道徳経』は『老子』とも言われる。全書合わせて5000字を超え、内容が豊富で、中国の重要な古代文化遺産である。老聃は素朴な唯物論の思想家であり、「道」を哲学の最高の型とする第一人者である。「道」はもともと人の歩む道で、四通八達の意味を持っており、当時の人に「法則」の意味で転用されている。老聃は自然の変化と人間の関係をよく観察した上で、「道」に新たな意義を与えた。老聃は「道」は非常に現実的・具体的であり、すべての具体的な事物が生まれる最終的な源であると主張している。 
 
 老聃は『道徳経』で万物流転の法則を述べた。福と禍は相互に転化できるものとし、禍は福を育み、福には禍の芽生えがあると主張した。老聃は更に事物の量の累積による質の変化という点に注目し、「小さな種が大木に育ち、ばらばらの細かい土も高い土台を築くこともできる。困難に負けず、小さな努力かを蓄積すれば、最終的には困難を克服し、偉大な事業を成すことができる」と説いた。 
 
 老聃は戦争に反対し「軍隊があるところにはイバラが生え、大きな戦が終われば、必ず飢饉が起こる」と主張した。また統治者の度を超えた重税にも反対した。 
 
 老聃の哲学思想は中国の哲学史上において重要な地位にあり、その政治思想は後の先進的な思想者や空想的社会主義の改革者にも大きな影響を与えている。

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