中国の伝統的な漢方医は悠久の歴史を持ち、数多くの有名な漢方医を輩出している。16世紀の明の時代、李時珍という有名な薬物学者が『本草綱目』と名づけた薬典を編纂し、これが中国医薬史上における経典となった。
李時珍(1518年~1593年)は湖北省蘄州市の出身である。蘄州はたくさんの薬材が採れるところであった。李時珍は医者の家に生まれ、小さい頃から自然に強い興味を示し、いつも父親といっしょに山で草薬を採集し加工までしていた。医療行為を行う中で、李時珍は先人が書いた薬典『本草』の信頼性に疑いを持ち始めた。一部の分類ははっきりせず、列挙されている一部の薬効には確実性が薄く、迷信や間違いなども混じっていた。これらは民衆の健康ないし命にかかわる重大事であると考えた李時珍は、新しい薬典を編纂するという使命感を持った。1522年、35歳になった李時珍は『本草綱目』の編纂に力を注いだ。
この新薬典編纂のため、李時珍は800種あまりの医学関係の本とその他の書籍を読んだうえに自ら集めた資料をもとに、薬典の大幅な修正を3回も行った。編纂には家族も協力し息子や孫、それに弟子たちもみんな校正や清書、挿絵などを手伝った。30年あまりの努力を経て、1578年、李時珍はようやく後世に伝わる大著『本草綱目』を完成させた。
『本草綱目』の文字数は合わせて190万字あまりで、16部、60類、50巻に分けられ、1892種類の薬物と1万1000あまりの処方が収められた。見やすいように各種薬物の複雑な形態を描いた1000枚を超える挿絵も入っている。『本草綱目』の成果はいくつもある。まず収蔵された薬物を新たに分類した。例えば草類や動物類の薬物に対し科学的な分類を行った。しかしヨーロッパの植物分類学者は1741年に初めて同様の分類を行った。李時珍より200年ほど後のことである。また『本草綱目』は先人の多くの間違いや信頼にかける表現を修正したほか、新たに発見した薬物や薬物の効能などを追加した。このほか、李時珍は昔の医学の本に見られる迷信的な言い方を批判した。李時珍が生活した時代には道家思想が流行っており、不老不死のための丹薬作りが吹聴されるなど医学分野においてさまざまな迷信が広がっていた。李時珍は素朴な唯物主義的観点で、科学と対立するような表現を批判した。