中国の歴史を見てみると中原の漢民族が中央政権を握り、周辺の少数民族の地方政権との対立が絶えなかった。対立解消のために常に戦争がおき、戦争を終結させ平和を手に入れる方法の1つとして政略結婚が利用された。王昭君の物語もそのうちの1つである。
紀元前1世紀頃、中国は漢の時代であった。西南の少数民族の匈奴(前209年~前174年)は内戦が起こり政権は分裂した。5つの単于(単于は部落の首領)は互いに攻撃し、最後に2人の単于が残った。この2人は互いに相手が中央の漢と手を結ぶことを怖れていた。その時、呼韓邪という単于が自ら漢朝の都であった長安へ赴き漢の皇帝に忠誠心を示した。皇帝はこれを熱くもてなし、別れの際にはたくさんの食糧を与えたほか軍兵を帰路の護衛につけた。漢の支援を得た呼韓邪はとうとう匈奴を統一した。
漢朝との友好を維持するために、紀元前33年、呼韓邪は3回も長安を訪れ、皇帝の娘を嫁にもらいたいと申し出た。皇帝は要求に応じる態度を見せたが、自分の血をひく娘を匈奴に渡したくはなかった。そこで皇帝は後宮の女官たちに「匈奴へ嫁にいくならば、その者をわが娘とする」と伝えた。
王昭君はこの話を聞き、自分の将来の幸せ、また漢と匈奴の2つの民族の平和のために、匈奴の妻になることを自ら申し出た。皇帝はこれを非常に喜び、長安で呼韓邪と王昭君の婚礼を行うことにした。
王昭君は匈奴で一生を送り、漢の文化を匈奴に伝えた。彼女の子女もその遺志を継ぎ、両民族の友好関係に力を尽くした。現在、中国の内モンゴル自治区フフホト市にある"昭君墓"は、古代の匈奴の人々が王昭君を記念するために建てたものである。1000年来、王昭君の物語は中国史上の美談として中国の詩、演劇、小説などの伝統的な題材となり世に広まった。