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第十六章:中国名人~玄奘
日期:2015-01-14 11:48  点击:475
 中国で誰もが知っている小説『西遊記』は、4人の仏教徒の弟子がインドにお経を取りに行く物語である。旅の途中、彼らは多くの危険に遭いながら、たくさんの妖怪や鬼、怪物を打ち負かし、ついに成功を収めるのである。この小説の主人公の1人、唐の三蔵法師のモデルとなったのは、中国古代の著名な文化の伝達師である玄奘和尚である。 
 
 玄奘は公元600年の唐時代に生まれた。幼い頃から頭が良く、当時一種の流行でもあった仏教をこよなく愛していた。玄奘は11歳ですでにお経を読み、13歳の時、当時の文化要地であった洛陽で出家した。その後全国各地の師を訪ね、仏経理論の研究に努めた。18歳の時には仏経界でその名が知られるようになっていた。彼はインド仏教学にある「経蔵」「律蔵」「論蔵」を精通したことから、人々から「三蔵法師」という名で呼ばれるようになった。 
 
 公元627年、玄奘は唐の都であった長安、現在の西安を出発し、インドのナーランダに向けて旅に出た。ナーランダは仏教の最高学府で、当時すでに700年以上の歴史があり、インド仏教学の権威、また世界各国の仏教徒が目指した場所と言える。 
 
 1300年以上も昔、人類は地理に対する知識を持たず、交通の便もよくない情況のなか、徒歩で中国中部からはるか彼方のインドまで行くことは、きわめて困難なことであった。途中、荒れ果てて人気のない砂漠や原生林を通るだけでなく、中国北西部の雪山も越えなければならないのであった。このような困難にも関わらず、敬虔な仏教徒であった玄奘は最後には苦しみや危険を乗り越え、公元629年の夏、インド北部に着いた。その後インド中部に入り、仏経の6大聖地を訪れた。 
 
 公元631年、玄奘はインドのナーランダで勉強を始めた。彼はそこで5年間学び続け、経典をあまねく読んだ。その後6年をかけてインド各地を遊学した。その間、10人以上もの仏教学の師に学び、多くの深い境地を得て当時一流の仏教学者の1人となった。そして全インドの仏教理論大会をとりしきる身分にまでなり、あらゆる仏教徒の問いに答えた。彼はインドにいた当時から仏教界での名声は高かった。 
 
 公元643年の春、玄奘は長年かけて集めた仏経と仏像を手に帰国した。当時の中国の皇帝、唐太宗は人を派遣してこれを迎えた。玄奘は、皇帝に役人になるよう求められたがこれを断り、長安の弘福寺に移り住んだ。唐太宗の支持の下、彼は各地の高僧、学者を集め大規模な経典の翻訳の場を作り、19年に及ぶ経典の翻訳作業を始めた。 
 
 玄奘の業績は人々の注目を集め、歴代の文人の心情やインスピレーションを呼び覚ました。唐の時代から文人たちは芸術的手法で、彼の業績を神格化し、宋の時代には『大唐三蔵取経詩話』が出版された。その後、明の時代に小説『西遊記』が出され世に広まったのである。1000年以上経った今でも、彼の物語は人々を魅了し続けている。

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