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第十六章:中国名人~鑑真
日期:2015-01-14 11:49  点击:544
 鑑真は中国東部・江蘇省揚州江陽県の出身で、仏教徒の家庭に生まれた。西暦708年、21歳の時、長安で受戒し正式に僧侶になると、その後40年にわたり、読経や寺院・仏像の建立に携わった。彼が授戒した僧侶の数は4万人を超え、中には著名な高僧となった者もいる。中国東部における授戒大師と称えられ、その地位は非常に高かった。 
 
 743年、日本人僧の栄睿と普照が揚州に赴き、日本で仏教を広めるよう鑑真に求めた。鑑真はこれを快諾し、航海の準備に入った。彼の呼びかけに対し、21人の弟子が随行したが、1回目の航海は政府の干渉を受け失敗に終わった。2回目の航海は、軍艦を購入し仏像や仏具、薬品、食料などを調達した。弟子をはじめとする随行人の数は85人となった。しかし中国大陸を離れてまもなく、嵐によって船が破損し、帰港を余儀なくされた。修理を終え3回目の航海を試みたが、沖合いで座礁しまたも失敗に終わった。 
 
 3度の失敗にもかかわらず、鑑真はあきらめなかった。744年、彼は再び航海を試みたが政府の反対によって引き返すことになった。748年、61歳になった鑑真は楊州を出発し、4回目の航海を試みた。しかし台風に遭い、中国南部・海南島に流されてしまった。やっとのことで楊州に戻り、再び5回目の航海に出たが、これも失敗に終わった。この5回目の航海は損失も大きく、日本人僧の栄睿と鑑真の弟子である祥彦が相次いで病死した。鑑真自身も過労により両眼を失明した。 
 
 それから5年の年月が流れ、66歳になった鑑真は失明という困難にも負けず再度日本へ向かう。753年10月19日、楊州を出発し12月20日、ついに日本の土を踏んだ。そして朝廷から庶民まで、熱烈な歓迎を受けた。日本の朝廷は鑑真をねぎらい、戒壇の設立と授戒を全面的に任せた。756年には大僧都にも任命した。かつてないほどの厚い待遇だった。その後、鑑真は弟子たちとともに唐律招提を建立した。現在日本では唐招提寺として親しまれている。763年5月、鑑真は76歳で円寂し日本で埋葬された。 
 
 鑑真は日本で10年を過ごし日本文化の発展や中日文化交流に大きく貢献した。鑑真が日本へ来た頃、中国ではちょうど唐文化が繁栄していた。鑑真も来日の際、刺繍職人や画家、玉職人などを同行させ、絵画や刺繍、玉器、銅鏡などといった工芸美術の珍品や、大量の真筆法帖(ほうじょう)を持ち込んだ。鑑真が伝えた中国の文化と芸術は、日本の天平文化に影響を与えた。 
 
 天平文化の核心にあるのは仏教文化だが、鑑真はこの仏教分野において、最も日本に貢献している。鑑真が中国流に建設した唐招提寺はその後の日本における仏教建築の手本となった。仏像製作でも、それまでの日本には銅鋳造や木彫の技術しかなかったが、鑑真の来日後は大きく変わり、唐の仏像のような写実主義へと向かう。また乾漆像は天平芸術のなかで最も誇れる芸術品となった。鑑真の死後に作られた鑑真像も乾漆像だが、この製造技術は鑑真の弟子たちが伝えたものである。 
 
 また鑑真は中国医学を日本に伝えた。自ら光明皇太后の治療にもあたった。両眼を失明していたが、薬の知識は確かなものだった。 
 
 鑑真は日本で過ごした10年間、中日人民の友好のために尽力し、中日文化交流史において大きな業績を残した。1973年、当時の中国の副総理・鄧小平が日本の唐招提寺を訪ねた際、寺の長老たちから「鑑真和尚座像を里帰りさせてはどうか」との申し出を受けた。1980年4月19日、鑑真座像は楊州で公開され人々から熱烈な歓迎を受けた。

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