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第十六章:中国名人~毛沢東
日期:2015-01-14 11:50  点击:772
 毛沢東は湖南省湘潭県で生まれた。中国共産党、中国人民解放軍、中華人民共和国の主要な創始者と指導者である。1949年から1976年まで、毛沢東は中華人民共和国の最高指導者を務めた。毛沢東のマルクス・レーニン主義の発展、軍事理論に対する貢献、及び共産党の理論に対する貢献は毛沢東思想と呼ばれる。毛沢東の職務はほとんど主席と同様のものであるため、「毛主席」と尊称されている。毛沢東は世界の現代史の中で最も重要な人物の一人とみられ、米誌『タイム』も毛沢東を20世紀における最も影響力のある100人の1人に選んだ。 
 
 毛沢東は1893年12月26日に湖南省湘潭県の農家に生まれた。1925年の冬から1927年の春まで、『中国社会各階級分析』、『湖南農民運動視察報告』などの著作を発表した。農民問題の中国革命における重要な地位と無産階級が農民闘争を指導することの重要性を指摘し、陳独秀の右派思想を批判した。 
 
 国共合作が全面的に決裂した後、1927年8月の中国共産党中央の緊急会議で毛沢東は、「政権は銃によって取るものだ」、すなわち革命武力で政権を打ち立てる思想を提出し、中央政治局候補委員に選出された。会議後、湖南省、江西省の境地区で武装蜂起(秋収起義)を指導した。蜂起は失敗し、配下の蜂起部隊を率いて井岡山に入り土地革命を発動し、初の農村革命根拠地を創立した。1928年4月、朱徳が指導した蜂起部隊と合流し、工農革命軍(ほどなくして紅軍に改称)第4軍を創立し、党代表、前敵委員会書記に就いた。毛沢東を代表とする中国共産党の党員は中国の実際から出発し、国民党政権の統治が弱い農村で武装闘争を繰り広げ、農村で都市を囲い、最後に都市ないし全国の政権を打ち立てる道を切り開いた。毛沢東は『中国の紅色政権はなぜ存在することができるのか』、『小さな火花も広野を焼き尽くす(星星之火、可以燎原)』などの著作の中でこの問題について理論的に述べた。 
 
 1934年10月、毛沢東は中国工農紅軍第一方面軍(紅一方面軍)の長征に参加した。1935年1月に中国共産党中央政治局が貴州で拡大会議、すなわち遵義会議を開き、毛沢東を代表とする新しい中央指導部を樹立した。10月、中国共産党中央と紅一方面軍が陝西省北部に着き、長征は終了した。12月、毛沢東は『日本帝国主義に反対する策略を論ずる』と題する報告を行い、抗日民族統一戦線の政策を述べた。1936年10月、紅軍の第一方面軍、第二方面軍、第四方面軍の三大主力が合流した。同年12月、周恩来らと「西安事件」の平和的解決を実現させた。これは内戦から第2回目の国共合作、さらに共同で抗日へと転換する枢軸となった。同月には『中国革命戦争の戦略問題』、1937年の夏には、『実戦論』、『矛盾論』を書いた。抗日戦争勃発後、毛沢東をはじめとする中国共産党中央は統一戦線における独立自主の原則を堅持し、民衆を動員して敵の後方で遊撃戦争を展開し、数多くの抗日根拠地を立てた。1938年10月、中国共産党第6期中央委員会拡大の第6回全体会議で「マルクス主義中国化」の指導原則を提出した。抗日戦争の時期、毛沢東は『持久戦論』、『共産党人(発刊詞)』、『新民主主義論』などの著作を発表した。1942年2月、共産党を指導して全党で整風運動を行い、主観主義と宗派主義を正し、全党にマルクス・レーニン主義の普遍真理と中国革命の具体的な実戦を結びつけた基本的方向を一層把握させ、抗日戦争と全国革命の勝利を勝ち取るために思想的基礎を定めた。1943年3月、中国共産党中央政治局主席に選挙され、5月、根拠地の軍民を指導して生産運動を展開し、深刻な経済困難を克服した。 
 
 1945年4~6月、中国共産党第7回全国代表大会を主宰し、『聯合政府論』の報告を行なった。大会は「民衆を存分に動員し、人民の力を発展させ、共産党の指導の下で、日本の侵略者を打ち負かし、全国人民を解放し、新民主主義の中国を樹立する」という戦略を制定した。毛沢東思想は今回の会議で中国共産党の指導思想に確定された。毛沢東は中国共産党第7期中央委員会第1回全体会議から1976年9月9日に逝去するまでずっと中共中央主席を務めた。 
 
 抗日戦争に勝利した後、蒋介石による共産党及びその武力を滅ぼそうとする企てに対して、毛沢東は「真っ向から対立する」闘争方針を打ち出した。1945年8月、重慶に赴き蒋介石と交渉を行い、国内平和を実現したいという中国共産党の願いを表明した。 
 
 1946年夏、蒋介石が全面的な内戦を起こした後、毛沢東は朱徳、周恩来と共同で、中国人民解放軍を指導して積極的に防御し、優勢な兵力を集めてそれぞれ敵を殲滅する方針を実施した。1947年3月から1948年3月まで、周恩来、任弼時とともに陝西省北部に転戦し、西北の戦場と全国の解放戦争を指導した。1947年夏、中国人民解放軍は戦略を防御から進攻に転じ、毛沢東をはじめとする中国共産党中央の指導の下で、遼瀋、淮海、平津の三大戦役と1949年4月の渡江戦役によって、国民党政府を覆した。1949年3月、中国共産党第7期中央委員会第2回全体会議を主宰し、重要な報告を行った。会議は党の活動の重心を農村から都市に移し、党が全国で勝利した後の諸項目の基本政策を規定した。このほか全党は必ずや謙虚、謹慎、傲慢にならず、焦らずといった態度を保ち、刻苦奮闘の態度を保つよう呼びかけた。7月1日、『人民民主主義専政論』を発表し、人民共和国の政権の性質及びその対内、対外の基本政策を規定した。 
 
 1949年10月1日、中華人民共和国が建国し、毛沢東が中央人民政府主席に当選した。1950年6月、中国共産党第7期中央委員会第3回全体会議を主宰し、国の財政状況の基本的な好転を求めるために闘争するという目標を提出した。10月、米軍が朝鮮民主主義人民共和国に侵入し、中国東北部の情勢まで脅かされ、毛沢東をはじめとする中国共産党中央は抗米援朝戦争を行うことを決めた。1950年~1952年、毛沢東の指導の下、土地改革、反革命鎮圧運動、民主改革運動を行った。汚職、浪費、官僚主義に反対する「三反」運動と賄賂、脱税、国家財産の横領、材料と手間のごまかし、国家の経済情報の窃取に反対する「五反」運動を実施した。1953年6月、毛沢東の提案に基づき、中国共産党中央は党の移行時期の総路線を発表し、社会主義工業化と生産手段私有制に対する社会主義改造を系統的に行った。1954年9月、第1期全国人民代表大会第1回会議は毛沢東が主宰して起草した『中華人民共和国憲法』を可決し、毛沢東は今回の会議で中華人民共和国初の主席に当選し、1959年4月まで務めた。 
 
 1956年4月、談話「十大関係論」を発表した。この談話では中国の国情にふさわしい社会主義建設の道の基本を模索した。その後、中国共産党中央政治局拡大会議で、「百花斉放、百家争鳴(様々な文化を開花させ、自由に論争する)」という方針を提出した。9月、生産手段私有制の社会主義改造は基本的に終了し、中国共産党は第8回全国代表大会を開催し、「全国人民の主要任務はすでに力を集めて社会生産力を発展させることに変わった」と指摘した。しかし、この方針はのちに真剣には実施されず、一連の指導活動上の誤りと挫折をもたらした。1957年2月、毛沢東は談話「人民内部矛盾を正確に処理することに関する問題」を発表し、社会主義社会における敵と自分の間、または人民内部にある性質の異なる2種類の矛盾を正確に区別し、処理するという学説を提出した。

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