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第十九章:中国考古~明十三陵考古
日期:2015-01-14 13:40  点击:321
 明十三陵の由来はクーデターと関係があります。明の初代皇帝の朱元璋は、中国東部の南京に都を定め、朱元璋の死後、皇位を孫に継がせようとしたが、その四番目の息子の朱棣は皇位争いのために内戦を起こし、最終的に皇帝になった。南京が陥落された後、朱元璋の孫は行方不明となり、今でも歴史上の懸案だったのです。朱棣は即位した後、南京は不安定だと思い、都を北京に移しました。朱棣の在位期間中、自分のために陵墓の場所を選び、最終的に北京西北郊外の景色が美しくて守りやすく、攻撃されにくいことから、自分の陵墓にし、しかも「長陵」と名づけました。1409年に建造をはじめ、明が滅亡した1644年まで、200年余りに亘って、13人の皇帝がここに埋葬され、明時代皇帝の陵墓群となったため、「十三陵」と称されています。 
 
 十三陵は明孝陵と大体同じであり、陵墓の中軸ラインで帝王の「尊厳」を示している神道があります。正門の前に高い石製の鳥居があり、すでに450年余りの歴史があります。この石製の鳥居は、完璧に保存されており、すべて巨大な白色の美石で建造され、その上の彫刻は精美で、明清時代以来、めったに見られない石製の鳥居形です。 
 
 この門から遠くないところに、この陵園の正門である大宮門があります。この正門は陵園の門戸であり、以前皇帝が陵を祭る時通らなければならない道だったのです。大宮門から、山川の地勢に沿って、長さ約40キロメートルの陵園をめぐる城壁や10ヶ所の要道があります。各要道には、強力な軍勢を設置し、陵墓を守備していました。十三陵の各陵墓にはいずれも監、園、衛などの名があります。「監」とは陵を管理する役員や宦官が住むところで、「監督」は陵墓の祭祀事務を専門的に管理することから、陵墓の付近に建築されていましたが、現在ではいずれも村となっています。「園」は園丁が住むところで、果物と野菜を栽培し、陵を祭ることに用いられます。「衛」は軍隊がいるところで、陵墓を守備するために設置されたものです。 
 
 皇帝たちは、恒久的に自分の陵墓を保存するため、多くの神話を作りあげただけでなく、墓を極めて厳密に封じました。そのため、各陵墓の地下宮殿は終始、神秘なベールで覆われました。十三陵の中の定陵は、これら陵墓の中で最も神秘的で、特に、その地下玄宮は長い間人々に知られていませんでした。1956年5月、中国の考古学者は定陵地下宮の発掘を開始。定陵地下宮は総面積1195平方メートル、前、中、後、左、右の5つの殿堂から連なっており、全て石で構造されています。霊柩車が地下宮に運ばれる時、地面を損わないために臨時に敷設した厚い木の板は、今でも前殿から後殿までの地面に残されています。中殿には白色の美石の玉座が3つ。後殿は玄堂と称され、地下宮の主な部分です。正面の柩床の上には、3つのうわ柩が置かれている。そのうち、真中のうわ柩は特に大きいが、これは皇帝朱翊鈞の柩で、その左右に2人の皇后のひつぎがあります。また、そのまわりには26の副葬の箱、玉石、染付磁器など。定陵の発掘に従って、珍しくて貴重な文物が3000点余り出土されました。その内には、きらびやかで色彩が多様な織物や衣装、精巧で立派な金をちりばめた装身具もありました。また、まれに見る金器、玉製の器具や工芸品、磁器などもあり、これらは明時代の工芸の研究にとって貴重なものとなっています。 

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