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第二十一章:世界遺産~高句麗王城、王陵及び貴族の古墳群
日期:2015-01-29 21:32  点击:336
 高句麗王城、王陵及び貴族の古墳は、主に吉林省通化集安市と遼寧省本渓市桓仁県に分布している。高句麗は前漢(紀元前206-25 年)から隋、唐(581-907年)にかけて、中国北東部に現れた多大な影響力を持った辺境民族で、その活動地域は五女山城、国内城、丸都山城など40を越え、現在は多くの遺跡が残されている。そのうち14 の古墳が王陵で、残りの26 の古墳が貴族の墓でこれらは高句麗文化に属する。 
 
 高句麗政権は、中国東北地域における影響力の大きい少数民族政権のひとつであり、北東アジアの歴史において大きな役割を果たした。集安、桓仁は、高句麗政権初期と中期の政治、文化、経済の中心地であり、高句麗文化遺産がもっとも集中している地域である。 
 
 高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュムン)により建てられたとされる。初期の都は紇昇骨城である。これは、現在中国の五女山城である。五女山城は紀元前34年に建てられ、北方の少数民族が山城を構築する伝統を継承したが、場所の選択、城壁の作り方、石の加工などにおいて、今までと違う独特なところがある。このため、東北や北東アジア地域の山城建築の代表的なものになり、古代東北民俗建築史上、一里塚的な意義を持っている。 
 
 西暦3年高句麗は丸都山城に遷都、その後、平城の国内城に移り、427年平壌に再び遷都した。この425年間、国内城は高句麗の政治、経済と文化の中心であった。国内城は鴨緑江の中流の右岸にある通溝平原に位置し、中世期における北東アジア地域の城跡のうち、石の城壁を持つ数少ない城跡のひとつである。平壌に遷都した後、国内城は「別都」と呼ばれた。 
 
 丸都山城は集安城の北にある山の上に位置し、国内城の守備施設であるが、都としても利用された。高句麗の歴史上大きな役割を果たした。国内城と互いに依存しあう丸都山城は、世界王都建築史上の新しい様式である。丸都山城は紀元前3年から建造され、全体的に布石が完備され、大型宮殿を中心に建てられた山城王城である。西暦342年、燕王慕容皝が大挙して高句麗に攻め入り、丸都を襲い、高句麗に壊滅的な打撃を与えた。 
 
 現在の集安市近辺には、約7000基の古墳が見つかっている。そのうち高句麗の王族・貴族の陵墓群として世界文化遺産に登録されたのは、太王陵、将軍塚、千秋塚など12の大王陵と、将軍塚の陪冢や角抵塚、舞踊塚、五(かい)墳など26基の貴族墓である。特に後者の貴族墓には、壁画古墳が14基含まれている。好太王碑は、高句麗の第19代の王である好太王の業績を称えた石碑である。好太王は広開土王碑とも呼ばれ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑とも言われる。碑は、高さ約6.3m・幅約1.5mの角柱状の石碑である。碑文は純粋な漢文での記述となっている。 
 
 2004年7月、高句麗古墳群は文化遺産に登録された。 

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