聖徳太子に任命された遣隋使(けんずいし)の代表
小野妹子 (おののいもこ)
● 活やくした時代 6世紀末~7世紀初め 飛鳥時代(あすかじだい)
● 活やくしたこと
? 年 近江国(おうみのくに 滋賀県)の豪族(ごうぞく)の小野氏の子として生まれる。
小野妹子が聖徳太子に見出される。
小野妹子が冠位十二階で大礼(だいらい)という冠位につく。
607年 小野妹子が遣隋使(けんずいし)として隋(ずい)に送られる。(第1回)
【聖徳太子が隋(ずい)の皇帝である煬帝(ようだい)に送った手紙の始めの文章】
「日出(い)ずるところの天子、書を日没(ぼっ)するところの天子にいたす」
(太陽ののぼる東の日本の天皇が、太陽がしずむ西の隋の国の皇帝に手紙を送るという意味)
※ 日がのぼる…栄える 日がしずむ…おとろえる という意味もある。
608年 隋(ずい)の使者の裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。
小野妹子が裴世清(はいせいせい)を送って、再び隋(ずい)にわたる。(第2回)
留学生(りゅうがくせい)の僧旻(そうみん)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、
高向玄理(たかむこのくろまろ)が隋に留学する。
609年 小野妹子が帰国する。
622年 聖徳太子が亡くなる。
632年 僧旻(そうみん)が帰国する。
640年 南淵請安(みなぶちのしょうあん)、 高向玄理(たかむこのくろまろ)が帰国する。
645年 大化の改新が始まる。
※ 小野妹子の亡くなった年については不明である。
● 人 物 評
この時代、海に出ることは生死に関わることであった。この後、送られることになる遣唐使も12回のうち7回も遭難(そうなん)している。このような航海(こうかい)に2度も出る小野妹子は、かなり勇気のある人物であったのであろう。さすがは、聖徳太子がその人柄を認めるだけの人物である。「子」がつくと、女性と考えがちであるが、この当時、「子」がついても男性であることもある。小野妹子は男性である。それもとても勇気のある男性である。小野妹子は、日本の発展に命がけで取り組んだ人物といえるだろう。