岩倉具視 (いわくら ともみ)
● 活やくした時代 1825年~1883年
江戸~明治時代
● 活やくしたこと
1825年 中納言(ちゅうなごん)堀川康親(ほりかわ やすちか)の子として京都に
生まれる。
1838年 貴族の岩倉具慶(いわくら ともよし)の養子になる。
1860年 岩倉具視が公武合体策(こうぶがったいさく)に賛成し、和宮(かずのみや)が
将軍 徳川家茂(とくがわ いえもち)と結婚するために働く。
公武合体策(こうぶがったいさく)
朝廷(公)と江戸幕府(武)が手を取り合っていっしょに政治を行うこと
1862年 朝廷が尊王攘夷(そんのうじょうい)の立場をとったため、命の危険を感じ、岩倉
具視は京都付近の村にかくれ住む。
尊王攘夷(そんのうじょうい)
天皇中心の政治にもどし、外国人を日本から追放しようとする考え
1867年 岩倉具視が小御所会議(こごしょかいぎ)に出る。
幕府側の土佐藩主(とさはんしゅ 高知県の藩主)山内容堂(やまのうち ようどう)
が反対するが、岩倉具視が山内容堂を刺す決意をすると、山内容堂は反対しなく
なる。
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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が領地と官位を朝廷にかえす案が決定される。
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大政奉還(たいせいほうかん)
江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
王政復古を宣言する。
天皇中心の政治を行う。
1868年 岩倉具視が明治政府の副総裁(ふくそうさい)になる。
1871年 岩倉具視が外務卿(がいむきょう 外国との外交を担当する役職)と右大臣
(うだいじん)になる。
岩倉具視が不平等条約改正のためにヨーロッパ、アメリカに行くが、条約改正
に失敗する。
1873年 西郷隆盛(さいごう たかもり)が征韓論(せいかんろん)をとなえる。
岩倉具視は征韓論に反対する。
1874年 不平士族におそわれて、負傷(ふしょう)する。
1883年 病死する。(59才)
● 人 物 評
1867年に徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還(たいせんほうかん)が行われるが、その大政奉還をうまく演出したのが、貴族の岩倉具視であろう。小御所会議(こごしょかいぎ)で元の土佐藩主(とさはんしゅ)の山内容堂(やまのうち ようどう)が徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を弁護する立場をとり、江戸幕府の領地と官位を朝廷に返す案に大反対し、会議がまったく進まなくなった。そのことを聞いた西郷隆盛(さいごう たかもり)が「短刀一本あれば、かたづくことではないか。」と岩倉具視に伝えると、岩倉具視は顔色一つ変えず、大反対する山内容堂を刺す決心をしたという。山内容堂がそのことを知り反対をやめたため、江戸幕府の大政奉還(たいせいほうかん)の案が決定され、実際に大政奉還が行われることになる。岩倉具視の功績は幕府から朝廷の政権移動をうまく演出した点であろう。