どうして戦うのか。思い悩む胸の内を記した手紙がある。終戦の年の3月、一人の少尉がフィリピン・ルソン島から日本の父母にあてた。飛行機で内地へ連絡に戻る同僚に託したという
为什么打仗?有这么一封记录者内心烦恼与不解的家信。据说,这是在停战之年的3月,一名少尉军官从菲律宾罗宋岛写给日本父母的一封家信,委托乘坐飞机返回内地进行联系的同事转交。
その一節をこうつづる。「マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時(たそがれどき)の海を眺めていますと、どうしてわれわれは憎しみ合い、矛(ほこ)を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持になります」(『きけ わだつみのこえ』日本戦没学生記念会監修、光文社刊)。この人は、手紙を書いて間もなく戦没した
其中有这么一段,“马尼拉湾的晚霞特别美,若是悠闲地观赏着黄昏时分的海景,心里就会想,为什么我们一定要相互憎恨,兵戎相见?不由地产生一种隐隐约约的怀疑”(摘引自《听吧,海神的呐喊》日本战争死难学生纪念会监修 光文社发行)。写完这封家信后不久,此人便战死疆场。
マニラではそのころ、日米軍の激しい市街戦があり、大勢の市民が落命している。思い悩んだ個々の将兵もいたが、海を渡った日本軍はアジアを戦火に巻き込んだ。その史実は曲げられない
当年,在马尼拉日军与美军展开了一场激烈的巷战,并造成了大量市民命丧黄泉。尽管有的将校士兵也对此深恶痛绝,但是,日本军是远涉重洋来到当地卷入了亚洲战火的。此历史事实决不容歪曲。
ルソン島では、〈戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ……〉の詩で知られる竹内浩三も戦死している。戦争を嫌った若い詩人である。かつてお姉さんを取材して、話が「侵略」に及んだときの言葉を思い出す
<战死,悲哉/战士的死 ,悲哉……>以这首诗而闻名的竹内浩三最后也战死在了罗宋岛。他是一位厌恶战争的年轻诗人。这让我们想起,他曾经在采访姐姐时谈到有关“侵略”话题时的话语。
「やはり自分の意思ではなくても、フィリピンまで行って戦っているのですから。自分も死んでますけれど……」。きょう8月15日は、戦没者を追悼するとともに、アジアの犠牲者に深く頭(こうべ)を垂れる日でありたい
“虽然并不是自己的意愿,可是毕竟来到菲律宾打仗了,因此,原本的那个自己也早已经死了”。今天8月15日,在追悼战争死难者的同时,希望这一天也是对亚洲死难者深刻地低头反省的日子。
巧みに厚化粧した戦後70年の首相談話は、国内外とりわけ近隣諸国の人々の心にどう届いたか。不戦と平和をさらなる大樹に育てる誓いの日でもある。歴史認識を首相任せにせず、自分でも考えてみたい。
经过巧妙地浓妆艳抹过,战后70年首相谈话,不知道是如何传达到国内外,特别是近邻各国人们的内心的。当然,这一天也是将不再战及保卫和平的誓言培育成参天大树的日子。我们不要把历史认识问题全都托付给首相,而是让自己也考虑一下。