一、午前八時五分
農場の耕耘部の農夫室は、雪からの反射で白びかりがいっぱいでした。
まん中の大きな釜からは湯気が盛んにたち、農夫たちはもう食事もすんで、脚絆を巻いたり藁沓をはいたり、はたらきに出る支度をしていました。
俄かに戸があいて、赤い毛布でこさえたシャツを着た若い血色のいい男がはいって来ました。
みんなは一ぺんにそっちを見ました。
その男は、黄いろなゴムの長靴をはいて、脚をきちんとそろえて、まっすぐに立って云いました。
「農夫長の宮野目さんはどなたですか。」
「おれだ。」
かがんで炉に靴下を乾かしていたせいの低い犬の毛皮を着た農夫が、腰をのばして立ちあがりました。
「何か用かい。」
「私は、今事務所から、こちらで働らけと云われてやって参りました。」
農夫長はうなずきました。
「そうか。丁度いい所だった。昨夜はどこへ泊った。」
「事務所へ泊まりました。」
「そうか。丁度よかった。この人について行って呉れ。玉蜀黍の脱殻をしてるんだ。機械は八時半から動くからな。今からすぐ行くんだ。」農夫長は隣りで脚絆を巻いている顔のまっ赤な農夫を指しました。
「承知しました。」
みんなはそれっきり黙って仕度しました。赤シャツはみんなの仕度する間、入口にまっすぐに立って、室の中を見まわしていましたが、ふと室の正面にかけてある円い柱時計を見あげました。
その盤面は青じろくて、ツルツル光って、いかにも舶来の上等らしく、どこでも見たことのないようなものでした。
赤シャツは右腕をあげて自分の腕時計を見て何気なく低くつぶやきました。
「あいつは十五分進んでいるな。」それから腕時計の竜頭を引っぱって針を直そうとしました。そしたらさっきから仕度ができてめずらしそうにこの新らしい農夫の近くに立ってそのようすを見ていた子供の百姓が俄かにくすりと笑いました。
するとどう云うわけかみんなもどっと笑ったのです。一斉にその青じろい美しい時計の盤面を見あげながら。
赤シャツはすっかりどぎまぎしてしまいました。そしてきまりの悪いのを軽く足ぶみなどをしてごまかしながらみんなの仕度のできるのを待っていました。
二、午前十二時
る、る、る、る、る、る、る、る、る、る、る。
脱殻器は小屋やそこら中の雪、それからすきとおったつめたい空気をふるわせてまわりつづけました。
小屋の天井にのぼった人たちは、器械の上の方からどんどん乾いた玉蜀黍をほうり込みました。
それはたちまち器械の中で、きれいな黄色の殻粒と白い細長い芯とにわかれて、器械の両側に落ちて来るのでした。今朝来たばかりの赤シャツの農夫は、シャベルで落ちて来る殻粒をしゃくって向うに投げ出していました。それはもう黄いろの小山を作っていたのです。二人の農夫は次から次とせわしく落ちて来る芯を集めて、小屋のうしろの汽缶室に運びました。
ほこりはいっぱいに立ち、午ちかくの日光は四つの窓から四本の青い棒になって小屋の中に落ちました。赤シャツの農夫はすっかり塵にまみれ、しきりに汗をふきました。
俄かにピタッととうもろこしの粒の落ちて来るのがとまりました。それからもう四粒ばかりぽろぽろっところがって来たと思うとあとは器械ばかりまるで今までとちがった楽なような音をたてながらまわりつづけました。
「無くなったな。」赤シャツの農夫はつぶやいて、も一度シャツの袖でひたいをぬぐい、胸をはだけて脱殻小屋の戸口に立ちました。
「これで午だ。」天井でも叫んでいます。
る、る、る、る、る、る、る、る、る、る。
器械はやっぱり凍ったはたけや牧草地の雪をふるわせてまわっています。
脱殻小屋の庇の下に、貯蔵庫から玉蜀黍のそりを牽いて来た二疋の馬が、首を垂れてだまって立って居ました。
赤シャツの農夫は馬に近よって頸を平手で叩こうとしました。
その時、向うの農夫室のうしろの雪の高みの上に立てられた高い柱の上の小さな鐘が、前后にゆれ出し音はカランカランカランカランとうつくしく雪を渡って来ました。今までじっと立っていた馬は、この時一諸に頸をあげ、いかにもきれいに歩調を踏んで、厩の方へ歩き出し、空のそりはひとりでに馬について雪を滑って行きました。赤シャツの農夫はすこしわらってそれを見送っていましたが、ふと思い出したように右手をあげて自分の腕時計を見ました。そして不思議そうに、
「今度は合っているな」とつぶやきました。
三、午后零時五十分
午の食事が済んでから、みんなは農夫室の火を囲んでしばらくやすんで居ました。炭火はチラチラ青い焔を出し、窓ガラスからはうるんだ白い雲が、額もかっと痛いようなまっ青なそらをあてなく流れて行くのが見えました。
「お前、郷里はどこだ。」農夫長は石炭凾にこしかけて両手を火にあぶりながら今朝来た赤シャツにたずねました。
「福島です。」
「前はどこに居たね。」
「六原に居りました。」
「どうして向うをやめたんだい。」
「一ぺん郷国へ帰りましてね、あすこも陰気でいやだから今度はこっちへ来たんです。」
「そうかい。六原に居たんじゃ馬は使えるだろうな。」
「使えます。」
「いつまでこっちに居る積りだい。」
「ずっと居ますよ。」
「そうか。」農夫長はだまってしまいました。
一人の農夫が兵隊の古外套をぬぎながら入って来ました。
「場長は帰っているかい。」
「まだ帰らないよ。」
「そうか。」
時計ががちっと鳴りました。あの蒼白いつるつるの瀬戸でできているらしい立派な盤面の時計です。
「さあじき一時だ、みんな仕事に行って呉れ。」農夫長が云いました。
赤シャツの農夫はまたこっそりと自分の腕時計を見ました。
たしかに腕時計は一時五分前なのにその大きな時計は一時二十分前でした。農夫長はじき一時だと云い、時計もたしかにがちっと鳴り、それに針は二十分前、今朝は進んでさっきは合い、今度は十五分おくれている、赤シャツはぼんやりダイヤルを見ていました。
俄かに誰かがクスクス笑いました。みんなは続いてどっと笑いました。すっかり今朝の通りです。赤シャツの農夫はきまり悪そうに、急いで戸をあけて脱穀小屋の方へ行きました。あとではまだみんなの気のよさそうな笑い声にまじって、
「あいつは仲々気取ってるな。」
「時計ばかり苦にしてるよ。」というような声が聞えました。
四、
日暮れからすっかり雪になりました。
外ではちらちらちらちら雪が降っています。
農夫室には電燈が明るく点き、火はまっ赤に熾りました。
赤シャツの農夫は炉のそばの土間に燕麦の稈を一束敷いて、その上に足を投げ出して座り、小さな手帳に何か書き込んでいました。
みんなは本部へ行ったり、停車場まで酒を呑みに行ったりして、室にはただ四人だけでした。(一月十日、玉蜀黍脱殻)と赤シャツは手帳に書きました。
「今夜積るぞ。」
「一尺は積るな。」
「帝釈の湯で、熊又捕れたってな。」
「そうか。今年は二疋目だな。」
その時です。あの蒼白い美しい柱時計がガンガンガンガン六時を打ちました。
藁の上の若い農夫はぎょっとしました。そして急いで自分の腕時計を調べて、それからまるで食い込むように向うの怪しい時計を見つめました。腕時計も六時、柱時計の音も六時なのにその針は五時四十五分です。今度はおくれたのです。さっき仕事を終って帰ったときは十分進んでいました。さあ、今だ。赤シャツの農夫はだまって針をにらみつけました。二人の炉ばたの百姓たちは、それを見て又面白そうに笑ったのです。
さあ、その時です。いままで五時五十分を指していた長い針が俄かに電のように飛んで、一ぺんに六時十五分の所まで来てぴたっととまりました。
「何だ、この時計、針のねじが緩んでるんだ。」
赤シャツの農夫は大声で叫んで立ちあがりました。みんなもも一度わらいました。
赤シャツの農夫は、窓ぶちにのぼって、時計の蓋をひらき、針をがたがた動かして見てから、盤に書いてある小さな字を読みました。
「この時計、上等だな。巴里製だ。針がゆるんだんだ。」
農夫は針の上のねじをまわしました。
「修繕したのか。汝、時計屋に居たな。」炉のそばの年老った農夫が云いました。若い農夫は、も一度自分の腕時計に柱時計の針を合せて、安心したように蓋をしめ、ぴょんと土間にはね降りました。
外では雪がこんこんこんこん降り、酒を呑みに出掛けた人たちも、停車場まで行くのはやめたろうと思われたのです。