ハックニー馬のしっぽのような、巫戯た楊の並木と陶製の白い空との下を、みじめな旅のガドルフは、力いっぱい、朝からつづけて歩いて居りました。
それにただ十六哩だという次の町が、まだ一向見えても来なければ、けはいもしませんでした。
(楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉に変ったり、どこまで人をばかにするのだ。殊にその青いときは、まるで砒素をつかった下等の顔料のおもちゃじゃないか。)
ガドルフはこんなことを考えながら、ぶりぶり憤って歩きました。
それに俄かに雲が重くなったのです。
(卑しいニッケルの粉だ。淫らな光だ。)
その雲のどこからか、雷の一切れらしいものが、がたっと引きちぎったような音をたてました。
(街道のはずれが変に白くなる。あそこを人がやって来る。いややって来ない。あすこを犬がよこぎった。いやよこぎらない。畜生。)
ガドルフは、力いっぱい足を延ばしながら思いました。
そして間もなく、雨と黄昏とがいっしょに襲いかかったのです。
実にはげしい雷雨になりました。いなびかりは、まるでこんな憐れな旅のものなどを漂白してしまいそう、並木の青い葉がむしゃくしゃにむしられて、雨のつぶと一諸に堅いみちを叩き、枝までがガリガリ引き裂かれて降りかかりました。
(もうすっかり法則がこわれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢だ。夢でなけぁ霧だ。みずけむりさ。)
ガドルフはあらんかぎりすねを延ばしてあるきながら、並木のずうっと向うの方のぼんやり白い水明りを見ました。
(あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ。あすこが少ぅしおれのたよりになるだけだ。)
けれども間もなく全くの夜になりました。空のあっちでもこっちでも、雷が素敵に大きな咆哮をやり、電光のせわしいことはまるで夜の大空の意識の明滅のようでした。
道はまるっきりコンクリート製の小川のようになってしまって、もう二十分と続けて歩けそうにもありませんでした。
その稲光りのそらぞらしい明りの中で、ガドルフは巨きなまっ黒な家が、道の左側に建っているのを見ました。
(この屋根は稜が五角で大きな黒電気石の頭のようだ。その黒いことは寒天だ。その寒天の中へ俺ははいる。)
ガドルフは大股に跳ねて、その玄関にかけ込みました。
「今晩は。どなたかお出でですか。今晩は。」
家の中はまっ暗で、しんとして返事をするものもなく、そこらには厚い敷物や着物などが、くしゃくしゃ散らばっているようでした。
(みんなどこか遁げたかな。噴火があるのか。噴火じゃない。ペストか。ペストじゃない。またおれはひとりで問答をやっている。あの曖昧な犬だ。とにかく廊下のはじででも、ぬれた着物をぬぎたいもんだ。)
ガドルフは斯う頭の中でつぶやき又唇で考えるようにしました。そのガドルフの頭と来たら、旧教会の朝の鐘のようにガンガン鳴って居りました。
長靴を抱くようにして急いで脱って、少しびっこを引きながら、そのまっ暗なちらばった家にはね上って行きました。すぐ突きあたりの大きな室は、たしか階段室らしく、射し込む稲光りが見せたのでした。
その室の闇の中で、ガドルフは眼をつぶりながら、まず重い外套を脱ぎました。そのぬれた外套の袖を引っぱるとき、ガドルフは白い貝殻でこしらえあげた、昼の楊の木をありありと見ました。ガドルフは眼をあきました。
(うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔梗いろの背景に、楊の舎利がりんと立つのは悪くない。)
それは眼をあいてもしばらく消えてしまいませんでした。
ガドルフはそれからぬれた頭や、顔をさっぱりと拭って、はじめてほっと息をつきました。
電光がすばやく射し込んで、床におろされて蟹のかたちになっている自分の背嚢をくっきり照らしまっ黒な影さえ落して行きました。
ガドルフはしゃがんでくらやみの背嚢をつかみ、手探りで開いて、小さな器械の類にさわって見ました。
それから少ししずかな心待ちになって、足音をたてないように、そっと次の室にはいって見ました。交る交るさまざまの色の電光が射し込んで、床に置かれた石膏像や、黒い寝台や引っくり返った卓子やらを照らしました。
(ここは何かの寄宿舎か。そうでなければ避病院か。とにかく二階にどうもまだ誰か残っているようだ。一ぺん見て来ないと安心ができない。)
ガドルフはしきいをまたいで、もとの階段室に帰り、それから一ぺん自分の背嚢につまずいてから、二階に行こうと段に一つ足をかけた時、紫いろの電光が、ぐるぐるする程明るくさし込んで来ましたので、ガドルフはぎくっと立ちどまり、階段に落ちたまっ黒な自分の影とそれから窓の方を一諸に見ました。
その稲光りの硝子窓から、たしかに何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいていました。
(丈がよほど低かったようだ。どこかの子供が俺のように、俄かの雷雨で遁げ込んだのかも知れない。それともやっぱりこの家の人たちが帰って来たのだろうか。どうだかさっぱりわからないのが本統だ。とにかく窓を開いて挨拶しよう。)
ガドルフはそっちへ進んで行ってガタピシの壊れかかった窓を開きました。たちまち冷たい雨と風とが、ぱっとガドルフの顔をうちました。その風に半分声をとられながら、ガドルフは叮寧に云いました。
「どなたですか。今晩は。どなたですか。今晩は。」
向うのぼんやり白いものは、かすかにうごいて返事もしませんでした。却って注文通りの電光が、そこら一面ひる間のようにして呉れたのです。
「ははは、百合の花だ。なるほど。ご返事のないのも尤もだ。」
ガドルフの笑い声は、風といっしょに陰気に階段をころげて昇って行きました。
けれども窓の外では、いっぱいに咲いた白百合が、十本ばかり息もつけない嵐の中に、その稲妻の八分一秒を、まるでかがやいてじっと立っていたのです。
それからたちまち闇が戻されて眩しい花の姿は消えましたので、ガドルフはせっかく一枚ぬれずに残ったフランのシャツも、つめたい雨にあらわせながら、窓からそとにからだを出して、ほのかに揺らぐ花の影を、じっとみつめて次の電光を待っていました。
間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃めいて、庭は幻燈のように青く浮び、雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋って立ちました。
(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)
それもほんの一瞬のこと、すぐに闇は青びかりを押し戻し、花の像はぼんやりと白く大きくなり、みだれてゆらいで、時々は地面までも屈んでいました。
そしてガドルフは自分の熱って痛む頭の奥の、青黝い斜面の上に、すこしも動かずかがやいて立つ、もう一むれの貝細工の百合を、もっとはっきり見て居りました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を、一諸に息をこらして見つめて居ました。
それも又、ただしばらくのひまでした。
たちまち次の電光は、マグネシアの焔よりももっと明るく、菫外線の誘惑を、力いっぱい含みながら、まっすぐに地面に落ちて来ました。
美しい百合の憤りは頂点に達し、灼熱の花辯は雪よりも厳めしく、ガドルフはその凛と張る音さえ聴いたと思いました。
暗が来たと思う間もなく、又稲妻が向うのぎざぎざの雲から、北斎の山下白雨のように赤く這って来て、触れない光の手をもって、百合を擦めて過ぎました。
雨はますます烈しくなり、かみなりはまるで空の爆破を企て出したよう、空がよくこんな暴れものを、じっと構わないで置くものだと、不思議なようにさえガドルフは思いました。
その次の電光は、実に微かにあるかないかに閃めきました。けれどもガドルフは、その風の微光の中で、一本の百合が、多分とうとう華奢なその幹を折られて、花が鋭く地面に曲ってとどいてしまったことを察しました。
そして全くその通り稲光りがまた新らしく落ちて来たときその気の毒ないちばん丈の高い花が、あまりの白い興奮に、とうとう自分を傷つけて、きらきら顫うしのぶぐさの上に、だまって横わるのを見たのです。
ガドルフはまなこを庭から室の闇にそむけ、丁寧にがたがたの窓をしめて、背嚢のところに戻って来ました。
そして背嚢から小さな敷布をとり出してからだにまとい、寒さにぶるぶるしながら階段にこしかけ、手を膝に組み眼をつむりました。
それからたまらず又たちあがって、手さぐりで床をさがし、一枚の敷物を見つけて敷布の上にそれを着ました。
そして睡ろうと思ったのです。けれども電光があんまりせわしくガドルフのまぶたをかすめて過ぎ、飢えとつかれとが一しょにがたがた湧きあがり、さっきからの熱った頭はまるで舞踏のようでした。
(おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ。)ガドルフは思いました。
それから遠い幾山河の人たちを、燈籠のように思い浮べたり、又雷の声をいつかそのなつかしい人たちの語に聞いたり、又昼の楊がだんだん延びて白い空までとどいたり、いろいろなことをしているうちに、いつかとろとろ睡ろうとしました。そして又睡っていたのでしょう。
ガドルフは、俄かにどんどんどんという音をききました。ばたんばたんという足踏みの音、怒号や嘲罵が烈しく起りました。
そんな語はとても判りもしませんでした。ただその音は、たちまち格闘らしくなり、やがてずんずんガドルフの頭の上にやって来て、二人の大きな男が、組み合ったりほぐれたり、けり合ったり撲り合ったり、烈しく烈しく叫んで現われました。
それは丁度奇麗に光る青い坂の上のように見えました。一人は闇の中に、ありありうかぶ豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけ、一人は烏の王のように、まっ黒くなめらかによそおっていました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に、小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです。
見る間に黒い方は咽喉をしめつけられて倒されました。けれどもすぐに跳ね返して立ちあがり、今度はしたたかに豹の男のあごをけあげました。
二人はも一度組みついて、やがてぐるぐる廻って上になったり下になったり、どっちがどっちかわからず暴れてわめいて戦ううちに、とうとうすてきに大きな音を立てて、引っ組んだまま坂をころげて落ちて来ました。
ガドルフは急いでとび退きました。それでもひどくつきあたられて倒れました。
そしてガドルフは眼を開いたのです。がたがた寒さにふるえながら立ちあがりました。
雷はちょうどいま落ちたらしく、ずうっと遠くで少しの音が思い出したように鳴っているだけ、雨もやみ電光ばかりが空を亘って、雲の濃淡、空の地形図をはっきりと示し、又只一本を除いて、嵐に勝ちほこった百合の群を、まっ白に照らしました。
ガドルフは手を強く延ばしたり、又ちぢめたりしながら、いそがしく足ぶみをしました。
窓の外の一本の木から、一つの雫が見えていました。それは不思議にかすかな薔薇いろをうつしていたのです。
(これは暁方の薔薇色ではない。南の蝎の赤い光がうつったのだ。その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行こう。街道の星あかりの中だ。次の町だってじきだろう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずいぶんいやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ。)
ガドルフはしばらくの間、しんとして斯う考えました。