むかし、あるところに一疋の竜がすんでいました。
力が非常に強く、かたちも大層恐ろしく、それにはげしい毒をもっていましたので、あらゆるいきものがこの竜に遭えば、弱いものは目に見ただけで気を失って倒れ、強いものでもその毒気にあたってまもなく死んでしまうほどでした。この竜はあるとき、よいこころを起して、これからはもう悪いことをしない、すべてのものをなやまさないと誓いました。
そして静なところを、求めて林の中に入ってじっと道理を考えていましたがとうとうつかれてねむりました。
全体、竜というものはねむるあいだは形が蛇の様になるのです。
この竜も睡って蛇の形になり、からだにはきれいなるり色や金色の紋があらわれていました。
そこへ猟師共が来まして、この蛇を見てびっくりするほどよろこんで云いました。
「こんなきれいな珍らしい皮を、王様に差しあげてかざりにして貰ったらどんなに立派だろう」。
そこで杖でその頭をぐっとおさえ刀でその皮をはぎはじめました。竜は目をさまして考えました。
「おれの力はこの国さへもこわしてしまえる。この猟師なんぞはなんでもない。いまおれがいきをひとつすれば毒にあたってすぐ死んでしまう。けれども私はさっき、もうわるいことをしないと誓ったしこの猟師をころしたところで本当にかわいそうだ。もはやこのからだはなげすてて、こらえてこらえてやろう」。
すっかり覚悟がきまりましたので目をつぶって痛いのをじっとこらえ、またその人を毒にあてないようにいきをこらして一心に皮をはがれながらくやしいというこころさえ起しませんでした。
猟師はまもなく皮をはいで行ってしまいました。
竜はいまは皮のない赤い肉ばかりで地によこたわりました。
この時は日がかんかんと照って土は非常にあつく、竜がくるしさにばたばたしながら水のあるところへ行こうとしました。
このとき沢山の小さな虫が、そのからだを食おうとして出てきましたので蛇はまた、
「いまこのからだをたくさんの虫にやるのはまことの道のためだ。いま肉をこの虫らにくれて置けばやがてはまことの道をもこの虫らに教えることができる。」と考えて、だまってうごかずに虫にからだを食わせとうとう乾いて死んでしまいました。
死んでこの竜は天上にうまれ、後には世界でいちばんえらい人、お釈迦様になってみんなに一番のしあわせを与えました。
このときの虫もみなさきに竜の考えたように後にお釈迦さまから教を受けてまことの道に入りました。
このようにしてお釈迦さまがまことの為に身をすてた場所はいまは世界中のあらゆるところをみたしました。
このはなしはおとぎなばしではありません。
手紙 二
印度のガンヂス河はあるとき、水が増して烈しく流れていました。
それを見ている沢山の群集の中に、尊いアシヨウカ大王も立たれました。
大王はけらいに向って「誰かこの大河の水をさかさまにながれさせることのできるものがあるか」と問われました。
けらいは皆「陛下よ、それはとても出来ないことでございます。」と答えました。
ところがこの河岸の群の中にビンヅマテイーと云う一人のいやしい職業の女が居りました。大王の間をみんなが口々に相伝えて云っているのをきいて「わたくしは自分の肉を売って生きているいやしい女である。けれども、今、私のようないやしいものでさえできる、まことのちからの、大きいことを王様にお目にかけよう」と云いながらまごころこめて河にいのりました。
すると、ああ、ガンヂス河、幅一里にも近い大きな水の流れは、みんなの目の前で、たちまちたけりくるってさかさまにながれました。
大王はこの恐ろしくうずを巻き、はげしく鳴る音を聞いて、びっくりしてけらいに申されました。「これ、これ、どうしたのじゃ。大ガンヂスがさかさまにながれるではないか」
人々は次第をくわしく申し上げました。
大王は非常に感動され、すぐにその女の処に歩いて行って申されました。
「みんなはそちがこれをしたと申しているがそれはほんとうか」
女が答えました。
「はい、さようでございます。陛下よ」
「どうしてそちのようないやしいものにこんな力があるのか、何の力によるのか」
「陛下よ、私のこの河をさかさまにながれさせたのは、まことの力によるのでございます」
「でもそちのように不義で、みだらで、罪深く、ばかものを生けどってくらしているものに、どうしてまことの力があるのか」
「陛下よ、全くおっしゃるとおりでございます。わたくしは畜生同然の身分でございますが、私のようなものにさえまことの力はこのようにおおきくはたらきます。」
「ではそのまことの力とはどんなものかおれのまえで話して見よ」
「陛下よ。私は私を買って下さるお方には、おなじくつかえます。武士族の尊いお方をも、いやしい穢多をもひとしくうやまいます。ひとりをたつとびひとりをいやしみません。陛下よ、このまことのこころが今日ガンヂス河をさかさまにながれさせたわけでございます」
手紙 三
普通中学校などに備え付けてある顕微鏡は、拡大度が六百倍乃至八百倍位迄ですから、蝶の翅の鱗片や馬鈴薯の澱粉粒などは実にはっきり見えますが、割合に小さな細菌などはよくわかりません。千倍位になりますと、下のレンズの直径が非常に小さくなり、従って視野に光があまりはいらなくなりますので、下のレンズを油に浸してなるべく多くの光を入れて物が見えるようにします。
二千倍という顕微鏡は、数も少くまたこれを調節することができる人も幾人もないそうです。
いま、一番度の高いものは二千二百五十倍或は二千四百倍と云います。その見得る筈の大さは
○、○○○一四粍 ですがこれは人によって見えたり見えなかったりするのです。
一方、私共の眼に感ずる光の波長は
○、○○○七六粍 (赤 色) 乃至
○、○○○四 粍 (菫 色) ですから
これよりちいさなものの形が完全に私共に見える筈は決してないのです。
また、普通の顕微鏡で見えないほどちいさなものでも、ある装置を加えれば
約○、○○○○○五粍 位までのものならばぼんやり光る点になって視野にあらわれその存在だけを示します。これを超絶顕微鏡と云います。
ところがあらゆるものの分割の終局たる分子の大きさは水素が
○、○○○○○○一六粍 砂糖の一種が
○、○○○○○○五五粍 という様に
計算されていますから私共は分子の形や構造は勿論その存在さえも見得ないのです。しかるに。この様な、或は更に小さなものをも明に見て、すこしも誤らない人はむかしから決して少くはありません。この人たちは自分のこころを修めたのです。
手紙 四
わたくしはあるひとから云いつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんとうにどうなったか、知っているかたはありませんか。チュンセがさっぱりごはんもたべないで毎日考えてばかりいるのです。
ポーセはチュンセの小さな妹ですが、チュンセはいつもいじ悪ばかりしました。ポーセがせっかく植えて、水をかけた小さな桃の木になめくじをたけて置いたり、ポーセの靴に甲虫を飼つて、二月もそれをかくして置いたりしました。ある日などはチュンセがくるみの木にのぼって青い実を落していましたら、ポーセが小さな卵形のあたまをぬれたハンカチで包んで、「兄さん、くるみちょうだい。」なんて云いながら大へんよろこんで出て来ましたのに、チュンセは、「そら、とってごらん。」とまるで怒ったような声で云ってわざと頭に実を投げつけるようにして泣かせて帰しました。
ところがポーセは、十一月ころ、俄かに病気になったのです。おっかさんもひどく心配そうでした。チュンセが行って見ますと、ポーセの小さな唇はなんだか青くなって、眼ばかり大きくあいて、いっぱいに涙をためていました。チュンセは声が出ないのを無理にこらえて云いました。「おいら、何でも呉れてやるぜ。あの銅の歯車だって欲しけややるよ。」けれどもポーセはだまって頭をふりました。息ばかりすうすうきこえました。
チュンセは困ってしばらくもじもじしていましたが思い切ってもう一ぺん云いました。「雨雪とってきてやろうか。」「うん」ポーセがやっと答えました。チュンセはまるで鉄砲丸のようにおもてに飛び出しました。おもてはうすくらくてみぞれがびちょびちょ降っていました。チュンセは松の木の枝から雨雪を両手にいっぱいとって来ました。それからポーセの枕もとに行って皿にそれを置き、さじでポーセにたべさせました。ポーセはおいしそうに三さじばかり喰べましたら急にぐたっとなっていきをつかなくなりました。おっかさんがおどろいて泣いてポーセの名を呼びながら一生けん命ゆすぶりましたけれども、ポーセの汗でしめった髪の頭はただゆすぶられた通りうごくだけでした。チュンセはげんこを眼にあてて、虎の子供のような声で泣きました。
それから春になってチュンセは学校も六年でさがってしまいました。チュンセはもう働いているのです。春に、くるみの木がみんな青い房のようなものを下げているでしょう。その下にしゃがんで、チュンセはキャベジの床をつくっていました。そしたら土の中から一ぴきのうすい緑いろの小さな蛙がよろよろと這って出て来ました。
「かえるなんざ、潰れちまえ。」チュンセは大きな稜石でいきなりそれを叩きました。
それからひるすぎ、枯れ草の中でチュンセがとろとろやすんでいましたら、いつかチュンセはぼおっと黄いろな野原のようなところを歩いて行くようにおもいました。すると向うにポーセがしもやけのある小さな手で眼をこすりながら立っていてぼんやりチュンセに云いました。
「兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。」チュンセはびっくりしてはね起きて一生けん命そこらをさがしたり考えたりしてみましたがなんにもわからないのです。どなたかポーセを知っているかたはないでしょうか。けれども私にこの手紙を云いつけたひとが云っていました。「チュンセはポーセをたずねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラというものである。チュンセがもし勇気のあるほんとうの男の子ならなぜまっしぐらにそれに向って進まないか。」それからこのひとはまた云いました。「チュンセはいいこどもだ、さアおまえはチュンセやポーセやみんなのために、ポーセをたずねる手紙を出すがいい。」そこで私はいまこれをあなたに送るのです。