「模倣小僧」という芳(かんば)しからぬ呼ばれ方をしたのは、若き十代の寺山修司だった。みずみずしい感性でうたった短歌の数々が脚光を浴びた。多くの目に触れるうちに盗作を非難する声があがった「事件」は、文学史上よく知られる。
年轻的,只有10多岁的寺山修司曾被冠以“模仿小子”这一贬义的称呼。以敏锐的感性所吟诵的诸多短歌备受人们瞩目。在文学史上,他的作品在众目睽睽之下被指盗版的“事件”非常有名。
〈向日葵(ひまわり)の下に饒舌(じょうぜつ)高きかな人を訪(と)わずば自己なき男〉。これには俳人の中村草田男に〈ひとを訪はずば自己なき男月見草〉の先行作があった。ほかにも多々指摘された。たとえば〈わが天使なるやも知れぬ小雀(こすずめ)を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る〉。
“向日葵下高声语,他人因此来相问,男子连道并非己”。在这作品出现之前,俳歌诗人中村草田男就创作了这样一首诗,“他人问起,男子言非己,夜来香静默一旁”。其他还有很多作品被指抄袭。比如“麻雀或是我等小天使,奈何枪击满身硝烟回”。
これは西東三鬼(さいとう・さんき)の〈わが天使なりやおののく寒雀(かんすずめ)〉に似ていると。批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦(あいしょう)されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある。
而这与西东三鬼的诗作“寒雀或为我等小天使”相似。一片责难之声中,俳歌诗人即便人间蒸发也是无足为奇,但事实却并非如此,他的俳歌至今仍受人们欢迎。对于这种骚乱的结局,实际上存在着微妙的东西。
東京五輪のエンブレム問題はどう収まるのか。盗用との指摘に対してデザイナーの佐野研二郎氏は「事実無根」だと反論する。騒ぎの中で、佐野氏が監修した景品用のバッグにも指摘があり、スタッフが他者の作品を写したことを認めた。
东京奥运会的象征符号的问题又该如何收场呢?面对盗用的指责,设计师佐野研二郎反驳称“毫无根据”。在这场骚动之中,佐野氏负责的装赠品的袋子也受到人们指责,其团队承认抄袭了别人的作品。
大切なのは、今後エンブレムに「国民の愛着」という生命が吹き込まれるかどうかだろう。著作権などの専門的な判断はともかく、国民が興ざめしてしまっては存在感は薄くなる。
而最重要的是,以后如何才能在该象征中注入名为“国民的依恋”这一生命力呢?著作权等专门性的判断暂且先放一边,一旦国民对此兴趣全无,那么其存在感也会减弱。
ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏(いちょう)ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。
顺带说一句,子规那句有名的诗“法隆寺内柿子高挂,钟声响起”是从其好友漱石以前所写的诗“钟声响起,建长寺内银杏下行”得到启示而作的。相互启发。受启发,被启发。人的创作行为也是如此。