私の学生時代の相棒は、「紙」と「ペン」であった。紙に語りかけ、ペンに言葉を託し、文章を紡ぎだす。そのようにして、自分の存在を見出していたように思う。
今から約二十年前、私には、当時購読していた雑誌があった。その中に文通友達を募集しているコーナーがあり、興味本位で便りを出したところ、私の文章が掲載され、ある同い年の女の子と文通を始めることになった。それが、Kである。
Kは茨城県に住んでおり、小学生だった私は、地元以外の友人ができたことに欣喜雀躍した。帰宅すると、毎日のように「手紙届いた?」と、母に尋ねる私。放課後、新しい便箋や封筒を買いに行くことが楽しみの一つとなっていた。
以降、私たちは「卒業」という節目を迎えるたびにお互いのことを少しずつ知るようになる。
小学六年生のとき、Kの自宅へ電話をし、初めて声を確かめ合った。中学三年生のとき、Kが修学旅行で京都へ来ることになり、母と二人で会いに行った。その後も、私たちは飽きることなく文通を続けた。高校生になっても、私たちは示し合わせたように携帯電話を持つことがなかった。
そして、高校三年生の冬。互いの進路先が決まったことを機に、私は思い切って一人で茨城県へ行き、Kの実家で一泊させてもらった。
文通を始めて八年目になっていたが、このとき初めて知ったことがある。それは、Kにお父さんがいない、ということだった。家族を紹介されたとき、Kから「お父さんはいない」とだけ聞かされ、私もそれ以上は何も聞かなかった。
その夜、私たちは寒空の下、コーヒーを啜りながら将来の夢を語り合った。Kは、幸せな家庭を持ちたい、と言った。そのあと、彼女は私の心臓を貫くような、鋭利な一言を放った。
「実は、文通を始めた年に、父が他界したの。それで、家族というものがよく分からないんだ。もし私が結婚するときは、招待するから絶対来てね。」
飲んでいたコーヒーが、喉元で熱さを増した。目頭も熱くなった。寒いのに、変な感じがした。
やがて、私たちは文通を「卒業」し、今は手軽に利用できるメールのやり取りが中心になっている。
しかし、先日久しぶりに彼女から自筆の手紙が届いた。何だろう、と思いつつ封を開けると、華やかな便箋には次のような言葉が記されていた。
「もうすぐ、結婚します。あのとき語った夢が、実現するの。招待状を送るので、ぜひ来てください。」
眠っていた私の中の何かが、動き出した。とっておきの「紙」と「ペン」を与えられた私の脳は、出番が来た!といわんばかりにフル稼働し、祝福の言葉を連ね始めた。手の動きが止まらなかった。というよりも、止められなかった。
Kは、一週間後に結婚式を控えている。あのとき交わした約束が果たされるとき、私は家族の一員のような、幸せな気持ちに包まれることだろう。
「文通」は、私にとって、言葉のやり取りだけでなく、心も通わせてくれるものであった。言葉を「打つ」ことが多くなってきている昨今、「書く」ことから友情を深めていった私たちの物語は、この約束を果たした後もまだまだ終わりそうにない。