お正月が来る、そう思うだけで、ワクワクとした興奮が腹の底から湧いてくる。それは、50才を過ぎた今も変わらない。家族水入らずで過ごす…ただそれだけなのに。
我が家の正月準備は、「春」畑に里芋の種芋を植え付けることから始まる。初夏には金時人参や大根、蕪の種を蒔く。皆お節料理の材料である。我が家では、父がお節料理をこしらえた。半年掛けて育てた野菜達を、縁起の良い28日に取り、31日に日付が変わる頃、父は一人で台所に立ち黙々と料理をした。里芋、蓮根、人参、しいたけ、くわい、筍、に牛蒡、こんにゃく、それぞれを別々に別々のだしで炊く。そして、幼い私が野菜ばかりのお節に飽きたらと、「だしまき卵」を焼いてくれた。
夜が明ける頃、ようやくお節の支度を終えた父は、母においしい煮つけと地物の海老を食べさせようと、片道1時間かけて馴染みの鮮魚店へ向かう。父の「行って来ます」の声を聞きながら、母と私は大急ぎで布団から抜け出す。父の炊いたものを重箱に詰めるのは、母の役目である。幼い私は母の側にへばりつき、かまぼこやだしまき卵の切れ端をせがんだ。我が家のお節には、ぜいたくなもの等一つもなかったが、毎年三段に積み重ねられた重箱の中には、両親が丹精込めて作った畑の野菜達が、胸を張って並んでいた。これが何十年も変わらない、我が家の年末の風景だった。それが楽しくて嬉しくて仕方なかった。そしてずっと変わらないものだと思っていた。
あんなに元気だった父が急に倒れ、右半身の自由と言葉を失ったのは、七草を少し過ぎた頃だった。母と私は戸惑う間もなく、父の介護の為、交代で病院へ泊り込むことになった。母は生涯薬を飲み続けなければならない持病を抱えている。無理はさせられない。私も仕事を持っていた。母と話し合い、週に二日は母が泊り、残りの五日は私が引き受けることにした。たった三人きりの家族、私達が揃って顔を合わせるのは、父の病室だけになっていた。
「お正月には2日外泊ができる」と看護師さんから聞いた時は、母と飛びあがって喜んだ。三人揃って我が家でお正月を迎えられる、ただ激しく嬉しかった。泊まり込みの合間を縫って、母は例年通り野菜を植えていた。だが、お節料理をこしらえる余裕があるとは思えない。「皆でおるのが御馳走、お節はデパートで買おうや」母と話してそう決めた。だが、「お父ちゃん、お節料理ね、今年は…」と報告しかけた時、父が動く左の手で身を起こし、しきりに唇を動かすではないか。目が生気を帯び輝いている。何十年と続けてきた役目を果たそうと、いや、果たしたいと言っているのだと直感した。「お父ちゃん、今年から私がこしらえるけぇ」買うなんて言えなかった。私の言葉を聞いた父は、ほんの一瞬視線を宙に泳がせ、納得した様に体をベッドに沈めた。
初めてこしらえたお節料理は、お世辞にも美味しいとは言えなかった。見た目は同じでも、味が全く違う。「美味しい?」と尋ねる度に父は大げさに「うんうん」と頷き、それを見た母は声を上げて笑った。父が倒れて以来、家族で笑うことなんてなかった。夜は三人で川の字になって眠った。かけがえのない二日間、宝物の様なお正月の思い出を残し、次の年の冬、たった69才で父は逝った。
以来20年、お節料理をこしらえるのは私の役目である。父がした様に、28日に畑に出て30日の夜台所に立つ。母がそれを重箱に詰めるのを見ながら鮮魚店へ向かう。何一つ変わらない年末の風景だ。父は今、この胸の奥深くに棲んでいる。
今年の元旦、「明けまして…」と頭を下げたとたん、ポロポロと涙がこぼれた。「お母さん、元気でいてくれてありがとう」母も「お世話を掛けます」と頭を垂れたまま鼻をすすり上げた。89才と51才の年明けである。「元旦から涙なんて縁起でもない」母が笑いながら涙を拭った。幸せとはどんなことか全て両親から教わった。我が家は我が家の「お正月」を続けて行く。