今からおよそ2200年前、新宮(和歌山県)の海浜に徐福の一行が上陸しました。徐福は、秦の始皇帝の命令により、蓬莱の国にあるという不老不死の仙薬を求めて渡来した漢方士です。中国の調査でも、徐福は実在の人物とされ、彼が生まれた村も発見されたといいます。彼がやってきたころの日本はというと、縄文時代から弥生時代に移り変わるころで、ようやく稲作が始まったばかりのころです。
徐福は「天台烏薬(てんだいうやく)」という薬木を見つけましたが、この地の温暖な気候と穏やかな人々が気に入り、ずっと住み続けたいと思いました。またその一方では、始皇帝の圧政から逃れ、多くの技術者と3000人の男女を連れ、自らの理想郷を創るために中国からやってきたという説もあります。その後、地元民との触れ合いのなかで、農耕や漁法、捕鯨、紙すきなど当時の最新技術を伝えたという伝説が残っています。
このような伝説は日本各地にありますが、熊野地方にはとくに多くの伝承資料が残っています。現在徐福公園となっているところには徐福の墓があり、熊野三山に準じて信仰を集めた阿須賀神社には徐福の宮があります。この宮は、幕末に描かれた新宮本社末社図にも見られます。