隋の煬帝が怒ったという、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」の手紙は有名です。中国の文献に記録された“日本からの手紙”が原文で残っている稀有な例です。たいていは、皇帝が喜ぶように役人によって改ざんされるのが常だったからです。
いずれにしても、当時の東アジアにおいて、中国の皇帝に対等に渡り合おうとする気概を持ったのは日本人だけでした。なお、聖徳太子が二度目に煬帝に送った手紙は、次のような書き出しでした。
「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」
このころ、「天皇」という称号が確立しました。隋との国交が開始されるまでは、日本の外交は朝鮮との間にあるだけでした。朝鮮の「王」に対し、日本は格上の意識から「天王」としていました。ところが、隋には「皇帝」がいます。「皇」とは「王」の上に君臨するものと分かりました。そこで、日本は「天王」をただちに「天皇」に変更したのです。