『日本書紀』によれば、大化の改新の始まりは、645年、中大兄皇子が中臣鎌足らと組んで蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺し、父の蘇我蝦夷の屋敷を襲って自殺させたこととされています。その翌年の正月に出された改新の詔は、(1)公地公民制の原則、(2)行政区画、軍事、交通制度の制定、(3)班田収授法、(4)新税制の4条からなり、中央集権国家にむけての第一歩をしるしたものです。
ところが近ごろの研究では、この大化の改新はなかったのではないかという説が有力になってきています。その根拠は、詔が、その後に出されたものに比べてあまりに整いすぎていること、後の701年に出された大宝律令の条文に酷似していること、とくに第2条にある「郡」の表現はこの時代には使われていなかったとされます。公地公民もこの時期から実施された形跡もなく、けっきょく、大化の改新はなかったわけではないが、後世にかなり脚色されて『日本書紀』にまとめられたのではないかというのです。