平城京は、唐の都・長安をまねてつくったとされます。しかし、長安は羅城(らじょう)といって、都市全体が高い城壁で囲まれていました。同じように唐をまねた朝鮮やベトナムの国々は羅城となっていますが、日本はそうなっていません。ただ、「京城垣(けいじょうがき)」という境界を示す垣根は存在したようです。
これは、決して城壁の建設費用をケチったわけではなく、中国・朝鮮・ベトナムなどの国々が陸続きで、いつ他民族に侵略されるか分からないという危機意識があったのに対し、島国である日本にはその心配がなかったからだといわれています。
ところで、この「平城京」は、奈良時代には「へいじょうきょう」ではなく、「ならきょう」と読まれていた可能性があります。平城と書いて「なら」と読ませている例が多数見られるからです。ほかにも「乃楽」「寧楽」なども「なら」と読ませており、これらは平安時代になって「奈良」に統一されたようです。