明治時代になっても、「武士道精神」は脈々と生き続けていました。武人にとっては、名を惜しみ、忠誠を尊び、戦いの場にあっていかに美しくあることができるか、あるいは美しく死ねるかというのが最大のテーマでした。そうした意識は、当然に敵に対する配慮にもおよび、敵を辱めるなどという行為はタブーとされました。敵であってもきちんと礼を尽くす、それが武士のたしなみだったのです。
たとえば日清戦争において、北洋艦隊の敵将・丁汝昌(ていじょしょう)が戦闘に敗れて自決してしまったときのこと。彼の部下たちはその遺骸を母国へ送るため、ジャンク(中国の帆船)に乗せて運ぼうとしました。
これを見た日本軍は、「敗れたとはいえ、海軍提督がジャンクのようなみすぼらしい船で帰国するのはよくない。ちゃんと軍艦に乗せて帰しなさい」と言って、軍艦を使わせた。敗者に対してもきちんと礼を尽くしたのです。
日露戦争で活躍した乃木大将もそうした人物でした。乃木大将は第三軍司令官として旅順要塞の攻撃を指揮しました。この戦いは、双方に多数の戦死者を出し、戦史に残る大激戦となりました。乃木大将自身も二人の息子を失い、最後にはロシアのステッセル将軍が降伏勧告を受け容れて、戦闘は終結しました。
乃木大将とステッセル将軍の会見の場では、双方が互いの勇気と健闘を称え合いました。そして、各国の軍記者が会見の写真を撮りたいと申し出たとき、乃木大将はこう言いました。
「敵の将軍にとって、後々に恥が残るような写真を撮らせることは武士道に反する。会見後に、我々が同列に並んだところを1枚だけ許そう」
そうして、ステッセル以下にきちんと剣を持たせて、いっしょに写真に収まったのです。ステッセルは会見後、幕僚に対し、「自分がこの半生のうちに会った人のなかで、将軍乃木ほど感激をあたえられた人はいない」と語ったといわれています。