日清戦争後、清国が西洋諸国に日本への圧力を依頼したことが、かえって諸外国から領土を食い荒らされる結果となり、白人排斥の感情が高まりました。その旗頭となった宗教集団”義和団”が蜂起、各地でキリスト教の教会が焼かれたり、西洋人が殺されたりました。ついには義和団は北京を制圧し、公使館区域を包囲、さらに天津の租界も包囲され、多数の外国居留民が閉じ込められました。
清国政府は傍観し、それどころか清国皇帝はこれをきっかけに「諸外国と戦う」という詔勅を出しました。欧米列国は思いも寄らない事態に驚愕し、日本による救援を望みましたが、日本政府は自国の判断のみで出兵することを避け、各国の意見を代表するイギリスの正式な申し入れを受けて、はじめて出兵を承諾しました。
日本軍は欧米との連合軍の先頭に立ち、天津・北京を落城させました。各国の軍隊が略奪行為を繰り返すなか、日本軍のみ規律正しくふるまい、任務終了後ただちに帰国しました。
その後、日英同盟に至ったのは、義和団事件で日本が模範的に行動したことが大きな理由でした。アジアの小さな有色人種国家にすぎないと思われていた日本が、規律正しく勇敢に行動したことが彼らの印象を一変させ「同盟相手として信頼できる国」との評価をもたらしたのです。
この同盟によりロシアのアジア進出が牽制され、日露戦争では日本に有利な役割をはたしました。