年の瀬の日々。忙中のふとした閑(かん)に、漱石の一句が胸に浮かぶ。〈行(ゆ)く年や猫うづくまる膝(ひざ)の上〉。きょうは夏目漱石が没して99年の命日。来年は100年の節目だから、記念の行事やら出版やら、泉下の文豪も身辺が賑(にぎ)やかなことだろう。
转眼已近年关。百忙之余,想起了漱石的一句诗,“猫儿盘踞膝盖上,转眼已是年关”。今天是夏目漱石去世99周年的忌日。因为明年是100周年。所以到处举办纪念活动,出版其作品,九泉之下的文豪想必也不得清净吧。
世界を見回せば、この大物も来年節目を迎える。漱石にも縁深い英国のシェークスピアは、没後400年になる。この人の作品も、時間という風雨に古びず、色落ちすることがない。その名は「吾輩(わがはい)は猫である」にも登場する。
环顾世界,有位大人物也将在明年迎来一个节日。他就是与夏目漱石渊源不浅的英国剧作家莎士比亚,明年将是他去世400周年。他的作品,丝毫不因时间的流逝而褪色、陈腐。他的名字在《我辈是猫》也有出现。
大劇作家の名声は明治の昔もありがたがられたようだ。漱石は猫の吾輩に、天橋立(あまのはしだて)の股のぞきを引き合いにこう言わせる。「たまには股倉(またぐら)からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよ位(くらい)に云(い)う者がないと、文界も進歩しないだろう」。西洋かぶれの権威主義への、漱石流の皮肉に読める。
大剧作家的名声在明治也倍受尊敬。夏目漱石对引用天桥立的股窥(日本一处景点,要从胯下观赏)对猫之我辈如是说,“偶尔从两腿之间看看哈姆莱特,如果没人说这东西不行,那么文学界也不会有进步。”从中可以看到漱石风格的对西洋权威主义的嘲讽。
名声や権威に人は弱い。わが身をかえりみても、巨匠の絵と知れば見え方は違い、国宝の仏像と聞けば背筋は伸びる。惑わされて素直な感想はゆがみがちだ。
面对名声和权威,人会自卑。即使是换作我,如果知道这是巨匠的画作,看法就会不同;如果听闻这是国宝佛像,敬意也会油然而生。受到迷惑,朴素的感想也往往会产生扭曲。
漱石が、国からの博士号授与を断った話はよく知られる。そのときの言葉がいい。「今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい」。権威に向き合う自由な精神にあふれている。
漱石拒绝国家授予博士称号的故事,想必大家都知道吧。他那时说的话非常好,“今天为止,一直作为夏目自己而活,此后也只想以夏目的身份活下去。”其中充满了直面权威的自由精神。
そして再来年は生誕150年と聞けば、五十路(いそじ)に届かぬ生涯が惜しい。〈倫敦(ロンドン)に時差のねぢ巻く漱石忌〉阿波谷和子。汲(く)めども尽きぬ泉から、文豪を味わい尽くす機となればいい。
听说后年是漱石诞辰150周年,他没活过50岁真是可惜。阿波谷和子吟道,“伦敦有时差,夏目忌日亦不同”。希望从这无尽的源泉中,尽情体会文豪的味道。