貿易とキリスト教
1543年ポルトガル人が西洋人として初めて九州のある島に着き、鉄砲を伝えて以来、1639年鎖国によってオランダ人と、中国人だけしか日本に来られなくなるまでの約100年間に多くの西洋人が日本に来航した。この100年は、日本の経済史、宗教史、政治史の上で非常に興味深い。
まずはじめに、日本で大きな力を持ったのはポルトガル人であった。日本に来航したポルトガル人は、貿易をするために来た者ばかりではなく、キリスト教を広める目的で来た宣教師も多く存在した。当時の日本の政治の中心となっていたのは、織田(おだ)信長(のぶなが)であった。彼は西洋の文明・文化に深い興味を持っており、貿易の重要性を良く認識していたので、鉄砲をはじめ日常生活に役にたつ物までいろいろな物の輸入を認めた。 また、1549年にポルトガル人によってはじめて日本に伝えられたキリスト教はまだ十分に広まっておらず、日本の政治・宗教はキリスト教からあまり大きい影響を受けていなかったので、信長はポルトガル人が自由にキリスト教を布教することを許した。つまり、信長の時代は貿易もキリスト教の布教も自由にできた時代であった。
豊臣(トヨトミ)秀吉(ヒデヨシ)の時代になると、スペイン人も新たに来航するようになり、貿易量は以前よりも多くなった。秀吉もやはり信長同様貿易の必要性を認めていたので、ポルトガル人・スペイン人は自由に輸出入ができた。ところが、秀吉の時代までに、キリスト教は多くの日本人を信者にすることに成功し、その力は急速に強くなっていった。秀吉は、はじめキリスト教を黙認していたが、キリスト教の教えは封建制度の考え方に反する、西洋人が日本の大名をキリシタンにして国内で反乱を起こさせ国土を奪うかもしれない、などと考え、キリスト教を禁止してしまった。しかし、ほとんどのポルトガル人の宣教師は貿易と深い関係があり、キリスト教を完全に禁止すると貿易もできなくなるので、秀吉は徹底的にキリスト教を禁止することができなかった。秀吉の時代は、キリスト教はだめだが、貿易は良いという時代だったわけだ。
17世紀になり江戸時代になると、オランダ人・イギリス人も日本に来航して貿易を始めた。 徳川(とくがわ)家康(いえやす)も秀吉と同じように、貿易については自由にやらせ、はじめはキリスト教を黙認していたが、後に禁止してしまった。1620年代になると、イギリスとスペインが日本を去り、残ったのはオランダとポルトガルだけになった。
この二つの国は、それぞれ宗教と貿易について異なる考え方を持っていた。ポルトガル人にとって、キリスト教の布教と貿易をすることは一体であった。つまり、宣教師が貿易活動をするのは当然であった。これに対して、オランダは、キリスト教を広めようという意志はなく、日本との貿易を通して利益を得ようと思っていただけだった。
徳川幕府にとって、キリスト教の教えは封建時代の考えに反するし、キリスト教信者が増加すれば、幕府の地位が危なくなるが、ヨーロッパとの貿易からは莫大な利益があり、財政上それをやめるわけにはいかなかった。だから、幕府が、長い間貿易の中心となっていたポルトガル人を海外に追放し、西洋人ではオランダ人にしか出島(でじま)で輸出入をさせなかったのは当然の結果であった。
☆ 次の質問に答えなさい。
1.「この100年」(3行目)の初めと終わりの事件を簡単に述べなさい。
2.鉄砲とキリスト教とどちらのほうがどのくらい早く日本に伝えられましたか。
3.日本に来たポルトガル人は、輸出入する目的で来た人だけでしたか。
4.織田信長は日常生活に必要な物の輸入だけしか認めませんでしたか。
5.信長がポルトガル人に自由にキリスト教の布教を許したのはどうしてですか。理由を二つ書きなさい。
a.
b.
6.この話によると、信長の時代と秀吉の時代はどういうふうに違いますか。
7.秀吉が徹底的にキリスト教を禁止できなかった理由を述べなさい。
8.徳川幕府がポルトガル人を追放し、オランダ人に貿易に許した理由を述べなさい。