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『土のこやし』19
日期:2016-03-18 15:46  点击:332
19. 帽子の如く、外套の如く
 
 学生でいるときは良いのですが、卒業して仕事についたり、所帯をもつようになると、厄介な問題になるのが、世間の慣習とか、お付き合いということです。それらにどれだけ従ったら良いのかという問題です。例えば、会社に入ってある部や課に配属されます。するとその会社独特の、あるいはその部や課に独特の付き合いの慣習があります。仕事が終って一杯やっていこうというようなものです。勤務時間後ですから職務ではありません。どちらかといえば意味のない余計なものです。しかしかといって全く付き合わないとしたら、あとで批判が続出してなかなか面倒なものです。また部や課の仲間に祝儀、不祝儀を出さなければいけない折があったとします。これもまた全く任意なものですから、出さなくてもいいわけです。それでも通常は慣習に従うでしょう。すると今度は問題になるのはその金額です。同じ様な関係の相手に対して、ある人は1万円、ある人は5千円であったりすると、5千円しか出さなかった人は相手から、なんだあいつは俺に対してその程度の気持ちしか持っていないのかなどと受け取られたりします。
 
 しかし本来、慣習とか、付き合いの仕方とかは、人間が作ったものです。人間が勝手に決めたものです。だからどうにでもありうるのですが、人間が作ったものであるのに人間が作ったものであることが忘れられて、あらかじめ現実がそのようになっているのだと、作りものと現実が混同されてしまうことが多いのです。例えば、5千円の祝儀をもって来た人は5千円の気持ちを持って来たとされてしまうのです。またある人が慣習と違ったことをすると、単に違ったやり方をしたというのでなしに、あいつはものを知らない、常識のない奴だと言われます。
 
 では、どうしたらいいのでしょうか。一般意味論のハヤカワは、優れた人物は、そういう慣習が人工のものだということをよく知っていて、それをあたかも帽子か外套のように軽く頭や肩にのせているのだと言います。帽子や外套はいつでも簡単に脱ぎ捨てることができます。つまり彼は慣習に固執しはしません、いつでもやめることができるわけです。しかしながら逆に慣習を頑なに拒否するのでもありません。帽子や外套が必要に応じてすぐに身につけられるように、慣習を簡単に受け入れもします。しかし、慣習は人のこしらえたものだとよく知っていて、それにこだわらないというのです。
 

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