20. 野の百合、空の鳥
新約聖書、マタイによる福音書、「山上の説教」のなかに、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の身体のことでなにを着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、身体は 衣服より大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」とあります。
「命は食べ物よりも大切であり、身体は衣服より大切ではないか」、その通りで、本来は食物は命のためのもので、衣服は身体のためのものです。命、身体が主(しゅ)で、食物、衣服は従(じゅう)なのです。今の世の中は、その主従が入れ替わってしまって、食い物と着物が人生のすべてのように幅をきかしています。グルメだファッションだというわけです。さらに、入れ替わるだけならまだいいのですが、主のほうが消えてしまって、従だけしかそこにはない、場合によってはその従を逆に主が追いかけまわす。こうなると何が何だか、何が目的なのか、分からなくなってしまいます。
確かに、今の世の中は、こんなふうになってしまっているようにもみえます。世の中幅をきかせているのは主を失った従、食物や衣服をはじめ、どうでもいいことばかりです。そういった根なし草が複雑に絡み合って、右往左往しているばかりです。主なるものが何処にあって、何なのか、一向に見えてきません。どうしたらいいのでしょう。ここで言われているのは、我々は野の百合、空の鳥に戻らなければいけないということでしょう。彼らは食物に思い煩いもしなければ、着飾りもしません。しかしながら十分に生き、十分に美しいのです。人間は、何を食べ、何を着るかというような、非本質的な事柄に何時の時代からか、関わり煩いすぎてきた、そこを考えなおせ、と言っているのです。