21. 地下足袋を履いていても、偉い人は偉い
東京のベテランの漫才に、桂子・好江というコンビがありました。相方の好江師匠が比較的若くして亡くなったので、桂子師匠のほうは今はひとりで三味線をもって漫談をやっています。この桂子師匠は、苦労人で、小さい頃から、子守や、料理屋の下働きをやって働いてきたそうです。もう大分前になりますが、朝日新聞の、父を語るというような欄で、父親からこう言われたと話しています。
父親曰く、「地下足袋を履いていても、偉い人は偉い」。
今はあまり、職業の貴賤や差別は言わなくなりましたが、かつては、地下足袋は労務者の象徴で、ニコヨンなどといって、1日240円の日当で、日雇いで道路工事などして生活する人などがいて、下に見られていました。道端で働いている労務者のそばを通った婦人が、連れていた子供に、「あなたも勉強しないとああいうふうになっていまいますよ」と説教したという、失礼な実話もあります。
見てくれや職業で人を区別し、その人の本当の能力や、人格的な偉さを見ずに、外見や、社会的地位だけで人間を判断するというやり方は今でも一般です。肉体労働であること、見た目の汚さ、今の言葉で言えば3Kですが、それが即、人格の低さを表すと思われたりします。しかし、見てくれによる序列と、本当の偉さの序列は違います。この2つの序列を同じにしてしまって、世の中を、ただひとつの序列で見てしまう傾向が我々の心のなかには抜けがたくあるのです。
世の中には偉いと偉くないの区別がないかというと、それは厳然としてあります。そうでなければ世の中は面白くありません。だから向上心を持つのです。2人の人がいれば、少しの間つき合えば、そこには、それなりの違いがあって、そのことはやはり分かるのです。人間の差です。しかし、それは身なりの良し悪し、職業の種類にはよらないということです。身なりや職業とは別に人間を判断する目を持てということなのです。