29. 精神のない専門人、心情のない享楽人
M.ウェバーの基本的著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾の結論的な部分に、つぎのような句があります。
「精神のない専門人、心情のない享楽人」
この専門人、享楽人とは何でしょうか。
今の社会では我々は専門人として生きざるを得ません。分業して、それぞれが与えられた部分だけを、集中的に、専門的に扱う。それによって、高質と、高能率を得る、その総合として社会生活があるというふうになっています。それが全体の功利(全体の幸せ)という目的にとってもっとも合理的ということになります。近代社会の基本です。
一方、それでは何のためにこのようにして働くのかというと、近代の個人主義(これも合理主義の行き着くところです)では、究極的には自分の楽しみのためということになります。個人の幸せの追求が近代の原理なのです。専門人と享楽人、ウェバーはこれが近代の行き着くところだと言います。
しかしウェバーはその専門人は、精神を欠く専門人、つまり、専門人として効率よく、有能なのだが、全体の見通しに欠ける、今自分が何をやっているか分からずにただ効率よく事柄をこなす、そういう専門人だというのです。また一方で、近代人は享楽人として享楽を追求するが、そしてそれは成功するが、その享楽がバラバラで、刹那的になってしまい、それらを統一的につなぐこころ(心情)がない。断片的な享楽になってしまっている、そういうのです。
ウェバーのこの言は、20世紀初頭のものですが、現代でもよく当てはまります。我々の問題は、ここでいわれている意味での、精神とか、心情といういわば全体性を、専門性、享楽性という合理性、個別性を殺すことなく、それに背反することなく、どう回復させるかということです。このことがうまくいけば、何か、新しいものが見えてくるのではないでしょうか。