30. 事実があればそれだけで安心する
今年、受け取った卒業論文に、自由について論じたものがあって、そのなかに、次のような文がありました。
ふと今、自分に対して不安が湧いたとする。そのとき人は何をするだろう。自分には何があるか、一つ一つ事実をあげていく。「学校にいっている」「仕事がある」「結婚している」「家族がいる」等。人に対して言えるような客観的事実があることで、とりあえず安心する。もしこのような事実がなければ自分はだめだと悲観する。
ここで事実というのは、例えば、○○大学の学生である、○○会社の社員であるというようなことです。これは身分証明書を提示して証明できるから事実です。するとそれだけで、自分が確固として存在するとして、あとはそれに頼って安心してしまう。身分証明書が自己なのでしょうか。それでいいのかという反省です。
このことは、逆の見方をすると、ある年齢に達して、学生でない、会社員でない、仕事がない、それだけで、不安になってしまうということです。事実がないと、身分がないと、自分が存在しないような気持ちになって、悩んでしまう訳です。
学生であろうとなかろうと、会社員であろうとなかろうと、身分があろうとなかろうと、自分は同じ自分のはずです。しかしそれがそう考えられない。あたかも、身分がない場合は、人間でないような気がしてしまう。
もう少し言えば、人が老齢になって一生を終わる、そうすると葬儀の案内などに、その人の経歴などが、載るわけです。しかしその人の一生とは、その経歴なのでしょうか。逆に経歴を離れたその人とは何なのでしょうか。昔から、歴史的にも大きな仕事をした人などは、百科事典などの項目になって残ります。それはそれでいいのですが、そのときその本人は項目を離れても存在していたわけですが、それは我々の平凡な一生と質的に違った、何か別物であったのか、こういった疑問です。
つまり、事実を離れてそれだけ取り出したとき、生きるとはどういうことなのかという問題です。これはなかなか難しい課題です。是非、皆さんも考えてみてください。