しかし、果たしてそうだろうか。自然な知覚、あるがままの感覚などというものがほんとうにあるのだろうか。
たとえば、世界をあるがままに見よ、あるがままに聴け、という要求を前にして、①私たちは呆然とせざるをえないのではないだろうか。何かを見れば何かが背景に退き(しりぞき)、何かを聴けば別の何かが聞こえなくなる。
こういう現象はしばしば感覚の志向性というふうに呼ばれたりもするが、実際、何を優先的に知覚するかということは、単純に生理的な条件で決まるものではなく、むしろ文化的な感受性や対象理解の言語的、概念的な構造によって深く規定されている。私たち身体的な生存は制度的な技法に深く規定されているように思われる。➁感覚と意味が、ともに「センス」と呼ばれることには、それなりの意味が隠されているのであろう。
「問い」筆者は「①私たちは呆然とせざるをえないのではないだろうか。」と述べているが、なぜか。
1 世界をあるがままに見よ、あるがままに聴け、ということを単純に生理的な条件で規定できるから
2 何かを見れば何かが背景に退き、何かを聴けば別の何かが聞こえなくなるから
3 自然な感覚は非独立していて、生理な条件に規定されないから
4 自然な知覚、あるがままの感覚などというものがないのですから
「問い」「➁感覚と意味が、ともに「センス」と呼ばれることには、それなりの意味が隠されているのであろう。」とあるが、どのような意味が隠されているのか
1 感覚は独立していて、社会的、文化的な条件に規定されていないこと
2 私たちの感覚が、身体が置かれた条件に深く規定されていること
3 自然な知覚、あるがままの感覚というのは、もともと存在し得ないこと
4 感覚は特定の文化や社会における世界の解釈法や意味と不可分であること
「問い」「感覚はいったい何に規定されているか」、一番近いのはどれか
1 感覚は人間の生理的な条件に規定される
2 社会的、文化的な条件に規定されている
3 感覚は人間の生理的な条件に規定されない
4 社会的.文化的な条件に規定されない