むかしから、奈良のシカは春日大社(かすがたいしゃ)の神さまのおつかいだといって、とても大切にされてきました。
むかしむかし、この大社のすぐ西の興福寺(こうふくじ)という寺のわきに、寺子屋(てらこや)が一つありました。
ある日の事、子どもたちが手ならいをしていたとき、シカが一頭よってきて、三作(みのさく)という子の習字(しゅうじ)の紙を取って食べてしまいました。
「あっ! かえせ!」
三作は、手にもっていた筆(ふで)をなげました。
ただおどろいて、かるい力で投げたのですが、でもその筆がシカの鼻に当たると、シカはドサッと庭さきにたおれてしまいました。
それっきり、シカは動きません。
「シカが、死んでしもうた」
「三作が、筆をなげて殺したんや」
子どもたちは、大さわぎになりました。
お師匠(ししょう)さんも、青くなって飛んできました。
神さまのお使いであるシカを死なせたら、たとえ殺そうとしてやった事でなくても、石子(いしこ)づめの刑をうけるときまっていたのです。
石子づめとは、石をつめて生きうめにされることです。
「えらい事や。ほんまに死んどる」
「・・・・・・」
三作は口もきけずに、ただふるえていました。
そのうちに役人が飛んできて、おそろしい顔で三作をひきたてていきました。
それから数日後、興福寺境内(こうふくじけいだい)の十三鐘とよばれている前庭に、ふかい穴がほられました。
かわいそうに三作は、死んだシカとだきあわせにされたうえ、石子づめにされてしまったのです。
それは日ぐれどきで、むかしの時刻の呼び方で、七つ(午後四時ごろ)と六つ(午後六時ごろ)のあいだの事だったそうです。
七つには鐘が十四、六つには十二、なりますから、そのあいだの十三で、十三鐘とよぶようになったとも言われています。
三作がどういう子どもだったのか、年は何才だったかは、記録に残っていません。
でも、しばらくあとで三作の母がここへきて、かわいそうなわが子のかたみに、モミジの木をうえたそうです。
「シカにモミジ」といわれて、この組み合わせは絵にもたくさんかかれましたが、それも、この事からはじまったといいます。
また、ほかの言い伝えには、三作は興福寺のお稚児(ちご→寺院などにつかえる少年)さんだったとか、年は13才で、シカになげつけたのは、習字のときにつかう、ぶんちんの一種で、「けさん」というものだったともあります。
現在も奈良にはシカがたくさんいて、奈良公園のあたりには、千頭以上のシカがいるそうです。