その日の事故からもう何ヶ月か経った。足の痛みが日々の流れにつれてだんだん薄らいでいるが、その時に体験した人の心の温かさがまだ残っている。たぶん一生忘れられないだろう。
その日、私はいつものように自転車で学校に向かう途中、毎日必ず通る坂の下り道で転んだ。自分がわけも分からないうちに転んだ。自転車と一緒にぐるぐる回転し何メートルか先で止まった。その時、きりきりした全身の痛みのほか、私には何の意識もなかった。
「痛い!痛い!痛い!」激しい痛みで私は叫ばずにはいられなかった。すぐ、近くの全く知らない、日本人のお爺さんが私の声を聞いて、ばたばた走って家から出てきた。
地面の血。横たわった私。大声で叫ぶ私。歪んだ自転車。お爺さんはどういうことか、すぐ分かり、携帯で救急車を呼びながら、自宅に急いで駆けて戻った。間もなく、一人の頭髪の真白なお婆さんが、私のところによろよろして走ってきた。
両手に真白いタオルを持っている。そのタオルを私の足に敷き入れた時、私は始めて足にけがしたことを意識した。冷たいタオルがきりきりした痛みを緩めた。
私は「ありがとう」と言いながら、自分の真赤な血が真白のタオルを汚すことが心配で、痛さを堪えてちょっと動いた。お婆さんがすぐ「動かないで、動かないで、このままでいいのよ!」といいながら「はやく、はやく」と家に向かって叫んだ。
お爺さんが今度は両手にソファマットのようなものを持って、急いで私のところに駆けて来た。今度は、そのマットを直接私の背中の下に敷いて、「地面が堅いですから、このマットのほうがたぶん気持ちいでしょう」と言った。私は同じように「ありがとう」と言いながら、血がマットに汚さないようにちょっと動いた。このとき、お婆さんがいつの間にか、ひとつの枕が手にしていた。その枕をそっと私の頭の下に敷いた。
遠いところからの、救急車のサイレンが響きながらだんだん近くなる。お爺さんが「もうちょっと我慢して、救急車がすぐ来る」と言って、壊れた自転車が道を塞がないようにちょっと横に移動した。
救急車が来る前に、知らない人、知らない自動車が私のそばを通った。みんなが声をかけ、「お手伝いしますか」と聞いて、お爺さんが「大丈夫です。救急車もうすぐ来る」と答えた。
ただの声かけ、何気ない会話、極普通なやりとりが、その時の痛さで横たわっている私にとって何よりの慰めに感じた。
救急車が来た。救助隊員が私を救急車に運んで、市内の病院に向かって走っていった。
幸い、骨折していなかったので、杖に頼って翌日退院して家に帰った。タクシーが私を乗せて事故の道を通った時、私は特に道端の家に注意して見た。玄関のところに普段全然気をつけない「平田」という名前が刻んであった。
家に帰って初めての一ヶ月、週ごとに近くの医院に通院することになった。事故前に名前も知らない近所の「吉田さん」が自家用車で私を医院に送迎をしてくれた。その時の感動が恥ずかしさも交えて今も心に残っている。
一ヶ月のあと、交換留学の期限も終わった。帰国する前に私は「平田さん」と「吉田さん」の家を訪ね、深く心からお礼を言った。
以上は前年「釣魚島」により日中関係が悪化した最中に、私が交換留学生として京都で経験したことであった。両国関係がどんなに曲折変遷をしても、民間の友好は本当に永遠であると感じた出来事だった。
日本で母国でも体験しなかった心を伴った行動の温かさであった。事故に遭うことがなかったら、知り得なかった。人との関わりの優しさだった。
初めてだが、永遠に忘れられないことである。こんな友好な人々がいるからこそ、日中関係の行方も必ず、私の実感したように友好的な道に沿って進むだろう。