進展のないまま月が変わった。泊まり込みの多かった捜査員たちも、ちらほらと家に帰るようになった。笹垣も久しぶりに自宅の風呂に浸かった。彼は近鉄|八尾《やお》駅前のアパートで妻と二人暮らしをしていた。妻の克子《かつこ》は彼よりも三つ年上だった。二人の間に子供はいなかった。
自宅の布団で寝た翌日、笹垣は物音で目が覚めた。克子があたふたと着替えをしているところだった。時計の針はまだ七時を過ぎたところだ。
「なんや、こんな早《はよ》うに。どこへ行くんや」笹垣は布団の中から訊いた。
「あっ、起こしてごめん。ちょっとスーパーへ買い物に行ってきます」
「買い物? こんな時間にか」
「これぐらいに行って並んどかんと、間に合えへんかもしれんから」
「間に合わんて……一体何を買いに行くんや」
「そんなん決まってるでしょう。トイレットペーパーよ」
「トイレットペーパー?」
「昨日も行ったんよ。一人一袋と決まってるから、ほんまはあんたにも一緒に行ってほしいんやけど」
「なんでそんなにトイレットペーパーばっかり買うんや」
「そんなこと説明してる暇ないわ。とにかく行ってきます」カーディガン姿の克子は、財布を手に慌ただしく出ていった。
笹垣は何がなんだかわからなかった。このところ捜査のことで頭がいっぱいで、世間で何が起きているのか殆ど気にしていなかったのだ。石油が不足しているという話は聞いている。だがなぜトイレットペーパーを買いに行かねばならないのかわからなかった。しかもこんな朝早くに並んでまで。
克子が帰ってきたら、詳しく話を聞いてみようと思い、彼は再び瞼を閉じた。
電話が鳴りだしたのは、それから間もなくだった。彼は布団の上で身体を捻り、枕元に置いてある黒い電話機に手を伸ばした。頭が少し痛く、目は半分閉じたままだった。
「はい、笹垣です」
それから十数秒後、彼は布団をはねのけて起き上がっていた。眠気は一瞬にして吹き飛んでいた。
その電話は、寺崎忠夫が死んだことを告げるものだった。
寺崎が死んだのは、阪神高速大阪守口線上においてであった。カーブを曲がりきれず、壁に激突したのだ。典型的な居眠り運転のパターンだった。
この時彼のライトバンには、大量の石鹸《せっけん》や洗剤が積まれていた。トイレットペーパーに続いて、それらの品の買いだめ騒ぎが起きつつあり、顧客のために少しでも数を確保しておこうと寺崎が一睡もせずに走り回っていたらしいことが、後に判明した。
笹垣たちは寺崎の部屋を捜索した。桐原洋介殺しを暗示する物証を見つけるのが目的だが、徒労感のある作業であることは否定できなかった。何かが見つかったところで、犯人はこの世にいないのだ。
やがて捜査員の一人が、ライトバンの物入れから重大なものを発見した。ダンヒルのライターだ。縦型の、角張った形をしている。同様のものが桐原洋介の懐から消えていることは、捜査員全員が覚えていた。
しかしこのライターから桐原洋介の指紋は検出されなかった。詳しくいえば、誰の指紋も付いていなかった。布のようなもので拭き取られたらしいのだ。
桐原弥生子にもそのライターが見せられた。だが彼女は困ったように首を振った。似ているが同一とは断言できない、というのだった。
西本文代を警察に呼び、改めて話を訊くことになった。刑事たちは焦り、苛立《いらだ》っていた。何とか彼女に白状させようと必死だった。そのため取調官は、見つかったライターが桐原のものと確認できた、と解釈できる台詞《せりふ》まで口にした。
「これを寺崎が持ってたというのは、どう考えてもおかしい。あんたが被害者の懐から盗んで寺崎に渡したか、寺崎が自分で盗《と》ったとしか思えんのや。一体どっちなんや。ええ?」取調官はライターを見せて西本文代に迫った。
しかし西本文代は否認し続けた。彼女の姿勢には、全く揺るぎがなかった。寺崎の死を知って相当なショックを受けているはずなのに、その態度からは迷いが感じられなかった。
何かを間違《まちご》うてる。俺らは何か、全く違う道に入りこんでしまってるぞ――取り調べを横で聞きながら笹垣は思った。