国語担当の女性教師は、教科書と黒板以外には目を向けまいとしていた。機械的に授業を進めながら、この地獄の四十五分間が早く過ぎ去ってくれることだけを祈っているように見えた。生徒に本を朗読させることも、名指しして質問することもしなかった。
大江中学校三年八組の教室内は、前後二つの集団に分かれていた。多少なりとも授業を聞く気のある者は、教室の前半分に座っている。全くその気のない者たちは、後ろ半分のスペースを使って、好き勝手なことをしていた。トランプや花札で遊んでいる者、大声で雑談している者、昼寝をしている者などいろいろだ。
以前はそうした授業妨害者たちに向かって注意を続けていた教師たちも、一か月、二か月と経つうちに何もいわなくなってしまった。もちろんその背景には、教師たち自身が何らかの被害に遭っているという事情があった。ある英語教脚は授業中にマンガを読んでいた生徒の手からそのマンガ本を取り上げ、それで頭を殴って叱りつけたところ、その数日後に何者かに襲われ、肋骨を二本折られた。報復に違いなかったが、叱られた生徒にはアリバイがあった。また数学担当の若い女性教師は、黒板のチョーク置きにずらりと並べてあるものを見て悲鳴をあげた。そこに並んでいたのは精液の入ったコンドームだった。彼女はその少し前に、不良生徒たちを非難する言葉を吐いていたのだ。妊娠中の彼女は、ショックのあまり流産しそうになった。その直後から彼女は休職している。たぶん今の三年生が卒業するまでは、現場に戻ってこないと思われた。
秋吉雄一は、教室のほぼ真ん中の席に座っていた。つまりその気になれば授業を聞くこともできるし、簡単に妨害組にも加われるという位置だ。その時の気分によって立場を変えられるコウモリのようなポジションを、彼は気に入っていた。
牟田《むた》俊之《としゆき》が入ってきたのは、国語の授業が半分近く終わった頃だった。がらりと戸を開けると、誰の目を気にした様子もなく、悠然とした態度で、いつもの自分の席まで歩いていった。彼の席は窓際の一番後ろだ。国語教師は何かいいたそうな顔をして彼の動きを目で追っていたが、彼が椅子に座るのを見て、結局そのまま授業の続きを始めた。
牟田は机の上に両足をのせると、鞄から雑誌を取り出した。俗にエロ雑誌と呼ばれるものだった。おい牟田、こんなところでせんずりかくなよ、と仲間の一人がいった。牟田は岩のような顔に、不気味な笑いを浮かべた。
国語の授業が終わると、雄一は鞄の中から大きい封筒を取り出し、牟田に近づいていった。牟田は両手をポケットに突っ込み、机の上で胡座をかいていた。背中を雄一のほうに向けているので表情は見えない。だが一緒にいる仲間たちの笑い顔から推測すると、機嫌は悪くなさそうだった。彼等は最近ブームになっているテレビゲームのことを話していた。ブロック崩しという言葉が耳に入った。たぶん今日も途中で学校を抜け出して、ゲームセンターに直行するつもりなのだろう。
牟田の向かいにいる男子が雄一を見た。その目の動きにつられたように牟田も振り返った。眉を剃った跡が青い。ごつごつした顔面の窪《くぼ》みの奥に、小さいが鋭い目があった。
「これ」といって雄一は封筒を差し出した。
「なんや」と牟田は訊いた。低い声だった。息に煙草の臭いが混じっている。
「昨日、清華に行って撮ってきた」
これで封筒の中身に察しがついたらしく、牟田の顔から警戒の色が消えた。封筒を雄一の手から奪い取り、中を覗き込んだ。
封筒の中身は唐沢雪穂の写真だった。今朝、まだ暗いうちに早起きして、焼き付けをしてきたのだ。雄一としては自信作だった。白黒写真ではあるが、肌や髪の色を感じさせる出来になったと思っている。
舌なめずりしそうな顔つきで封筒の中を見ていた牟田は、雄一を見ると片方の頬だけに不気味な笑いを浮かべた。「なかなかええやんけ」
「そうやろ? 結構苦労したで」雄一はいった。顧客が満足してくれた様子なので、内心ほっとしていた。
「けど、数が少ないやないか。たったの三枚しかあれへんのか」
「とりあえず気に入ってもらえそうなのを持ってきただけや」
「あと何枚ある?」
「よさそうなのは五、六枚」
「よし、明日それを全部持ってこい」そういうと牟田は封筒を自分の脇に置いた。雄一に返す気はないようだった。
「一枚三百円やから、三枚で九百円」雄一は封筒を指差していった。
牟田は眉間に皺を寄せ、斜め下から舐《な》めるように雄一の顔を睨んだ。そんなふうにすると、右目の下にある傷痕が凄《すご》みを出した。
「金は写真が全部揃ってから払《はろ》たる。それで文句ないやろ」
文句があるなら拳《こぶし》で聞いてやろうかという口振りだった。無論雄一に文句をいう気はなかった。ええよ、といってその場を立ち去ることにした。
雄一が歩きかけると、「おい、ちょっと待てや」といって牟田が呼び止めた。
「秋吉、おまえフジムラミヤコって知ってるか」
「フジムラ?」雄一はかぶりを振った。「いや、知らんけど」
「やっぱり清華の三年や。唐沢とは別のクラスらしいけどな」
「知らん」雄一はもう一度首を振った。
「そいつの写真も撮ってきてくれ。同じ値段で買《こ》うたる」
「けど、顔も知らんのに」
「バイオリンや」
「バイオリン?」
「その女は、放課後いつも音楽室でバイオリンを弾いてる。見たらわかる」
「音楽室の中なんか、見えるのかな」
「そんなもん、自分の目でたしかめたらええやんけ」そういうと牟田は、もう用はなくなったといわんばかりに仲間たちのほうに顔を戻した。
ここで余計なことをいうと牟田がヒステリーを起こすことを知っている雄一は、黙ってそこを離れた。
牟田が、上品で金持ちの娘が通うことで有名な清華女子学園中等部の女子生徒に目をつけ始めたのは、一学期の半ばだった。どうやら彼等不良グループの間で、清華の女子を追い回すことが流行《はや》っているらしい。もっとも、実際にお嬢様をものにした者がいるのかどうかはさだかではない。
目当ての女子生徒の写真を撮ることについては、雄一のほうから牟田に話を持ちかけた。彼等が彼女たちの写真を欲しがっているという話を耳にしたからだ。趣味の写真を続けるには小遣いが足りないという、雄一なりの事情もあった。
牟田が最初に依頼してきたのが唐沢雪穂の写真だった。雄一の感触では、牟田は本気で雪穂のことが気に入っているようだった。その証拠に、少々出来のよくない写真でも、彼は決していらないとはいわなかった。
それだけにフジムラミヤコという別の名前が出てきたのは意外だった。唐沢雪穂はとてもものにできそうにないので、ほかの女にも目をつけ始めたのかもしれないと思った。いずれにしても雄一にとっては関係のないことだった。
昼休みに雄一が弁当を食べ終え、空の弁当箱を鞄にしまっていると、菊池がそばにやってきた。手に大きな封筒を持っている。
「これからちょっと屋上まで一緒に行ってくれへんか」
「屋上? 何のために?」
「例の話や」菊池は封筒の口を開き、雄一に中を見せた。そこには、昨日雄一が貸した写真が入っていた。
「ふうん」興味が湧いた。「そら、付き合《お》うてもかめへんけど」
「よし、行こう」
菊池に促され、雄一は腰を上げた。
屋上には誰もいなかった。少し前までは不良生徒たちの溜まり場だった。しかし大量の吸殻が見つかったことがきっかけで、生徒指導の教師が頻繁に見回るようになり、誰も寄りつかなくなったのだ。
数分して、階段室のドアが開いた。そこから現れたのは、雄一たちと同じクラスの男子生徒だった。名前は知っている。だが雄一は殆ど話をしたことはなかった。
桐原、といった。下の名前までは覚えていない。
雄一に限らず、誰もあまり彼とは親しくしていないようだった。何をする時でも特に目立つことはなく、授業中に発言することもめったにない。昼休みや休憩時間は、いつも一人で本を読んでいる。陰気な奴、というのが雄一の印象だ。
桐原は雄一と菊池の前で立ち止まると、二人の顔を交互に見つめた。その目にはこれまで見せたことのない鋭い光が宿っているようで、雄一は一瞬どきりとした。
「俺に何の用や」ぶっきらぼうな口調で桐原は訊いた。菊池が彼を呼び出したらしい。
「見せたいものがあってな」その菊池がいった。
「見せたいもの?」
「これや」菊池は例の封筒から写真を取り出した。
桐原は警戒した様子で近づき、写真を受け取った。白黒の画面を一瞥《いちべつ》した彼の目が大きく見開かれた。「なんや、これ」
「何かの参考になるんやないかと思てね」菊池はいった。「四年前の事件について」
雄一は菊池の横顔を見た。四年前の事件とは何だ。
「何がいいたい」桐原が菊池を睨んだ。
「わかれへんか。その写真に写ってるのは、おまえのおふくろさんやろ」
えっ、という声を漏らしたのは雄一だった。そんな彼を桐原はじろりと見てから、再び鋭い目を菊池に向けた。
「違う。うちの母親やない」
「なんでや。よう見てみろよ。おふくろさんやないか。それに一緒に歩いてるのは、前におまえのところにおった店員やろ」菊池はややむきになっているようだ。
桐原はもう一度写真を見てから、ゆっくりとかぶりを振った。
「何のことか、さっぱりわからんな。とにかくここに写ってるのはおふくろやない。つまらんことをいうのはやめてくれ」そして写真を菊池に返すと、くるりと向きを変えてそのまま歩きだした。
「これ、布施駅の近くやろ。おまえの家からも近いやないか」菊池は早口で桐原の背中にいった。「それにこの写真は四年前のもんや。電柱に貼ってある映画のポスターでわかった。これ、『ジョニーは戦場へ行った』や」
桐原の足が止まった。しかし彼は菊池とゆっくり話をする気はないようだった。
「うるさいな」彼は顔を少し後ろに捻っていった。「おまえには関係のないことやろ」
「親切でいうてやってるんやないか」
菊池はいい返したが、桐原は再び二人を睨みつけただけで、そのまま階段室に向かって歩きだした。
「せっかく手がかりになると思ったのに」桐原の姿が消えてから菊池はいった。
「何の手がかりや」雄一は訊いた。「四年前の事件て何やねん」
すると菊池は雄一を見て不思議そうな顔をし、その後で頷いた。
「そうか、秋吉はあいつとは小学校が違うから、あの事件のことは知らんのやな」
「だからどういう事件や」
雄一がいらいらして訊くと、菊池は周りを見回してからいった。
「秋吉、真澄公園って知ってるか。布施駅の近くにあるんやけど」
「マスミ公園? ああ……」雄一は頷いた。「昔、一回だけ行ったことがある」
「あの公園の横にビルがあるのを覚えてるか。ビルというても、建築途中でほったらかしになってるようなやつやけどな」
「そこまでは覚えてへんなあ。そのビルがどうしたんや」
「四年前、そのビルの中で桐原の親父さんが殺された」
「えっ……」
「金をとられてたから強盗の仕業やろうといわれてた。その頃はすごかったで。毎日毎日、町中を警察官がうろうろしとった」
「犯人はつかまったんか」
「一応、犯人らしき男は見つかったけど、はっきりしたことはわからんままや。そいつ、死んでしもた」
「死んだ? 殺されたんか」
いやいや、と菊池は首を振った。
「交通事故や。で、警察がその男の持ち物を調べたら、桐原の親父さんが持ってたのと同じライターが見つかってんて」
「ふうん、ライターを。それやったら決定的やないか」
「そうとはいいきれんで。同じライターだというだけのことで、桐原の親父さんのものと決まったわけやない。で、問題はここからや」菊池は階段室のほうをちらりと見て、声を低くした。「しばらくしてから変な噂が流れた」
「変な噂?」
「犯人は奥さんと違うか、という噂やった」
「奥さん?」
「桐原のおふくろさんや。店の者とできてて、それで親父さんが邪魔になったんやないかという話やった」
菊池によると、桐原の家は質屋をしているらしい。店の者というのは、その質屋で働いていた男のことを指すようだ。
だが雄一としては、友人の口からこういう話を聞かされても、テレビドラマの筋を聞いているようで実感が湧かなかった。「店の者とできてて」という台詞も、ぴんとこない。「それで、どうなった?」雄一は先を促した。
「結構長い間、そういう噂は流れとった。けど、結局は大して根拠のないことやし、そのうちにうやむやになってしもた。俺も忘れかけとった。ところがこの写真や」菊池は先程の写真を見せた。「これ見てみろ。後ろに写ってるのは連れ込みホテルやで。この二人、きっとここから出てきよったんやぞ」
「この写真があったら、何か違ってくるのか」
「違ってくるに決まってるやないか。桐原のおふくろさんが店員と浮気してたことの証拠や。つまり親父さんを殺す動機があるということになる。そう思たから、この写真を桐原に見せたったのに」
菊池は図書館の本をよく読んでいる。動機などという言葉がすんなり出てくるのも、その賜物《たまもの》なのだろう。
「そうはいうても、桐原にしてみたら、自分の母親のことを疑うわけにはいかんやろ」雄一はいった。
「その気持ちはわかるけど、どんなにいやなことでも、はっきりさせなあかん場合というのがあるんと違うか」菊池はやけに熱っぽい口調でいった後、小さく吐息をついた。
「まあええ。ここに写ってるのが桐原のおふくろさんやということを何とか証明してやる。そうしたらあいつも、知らん顔はでけへんはずや。この写真を警察に持っていったら、絶対に捜査のやり直しが始まるで。俺、あの事件のことを捜査してる刑事と知り合いなんや。あのおっさんに、この写真を見せたろ」
「なんでそんなにその事件にこだわる?」不思議になって雄一は訊いた。
菊池は写真をしまいながら、上目遣いに見返してきた。
「死体を見つけたのは、俺の弟や」
「弟? 本当か」
ああ、と菊池は頷いた。
「弟の話を聞いて、俺もそこへ見に行った。そうしたら本当に死体があったから、おふくろに知らせて、警察に連絡してもろたんや」
「そういう関係があったんか」
「発見者ということで、俺らは何遍も警察から質問された。しかしな、警察の連中は単に発見した時のことだけを訊きたかったわけやない」
「どういう意味や」
「警察はこういうことも考えとった。被害者は金を盗まれている。犯人が奪ったと思われる。けど、第三者が盗んだ可能性もある」
「第三者て……」
「死体発見者が、警察に知らせる前に金目のものをネコババするということは、珍しい話ではないそうや」菊池は口元に薄笑いを浮かべていった。「いや、それだけやない。警察の奴等は、もう一歩進んだことも考えとった。自分で殺しておいて、自分の息子に死体を発見させる――そういう手もあるやないかと」
「まさか……」
「嘘みたいやろ。ところが本当の話なんや。家が貧乏というだけで、俺らは最初から疑いの目で見られとった。俺のおふくろが桐原のところの客やったということにも、警察はこだわっとったみたいや」
「けど、疑いは晴れたんやろ」
菊池はふんと鼻を鳴らした。「そういう問題やない」
こういう話を聞かされた後では、何をどういっていいのかわからず、雄一は両手を握りしめたまま、ただ立ち尽くしていた。
その時だった。ドアの開く音がした。階段室から中年の男性教師が出てくるところだった。教師は眼鏡の奥の目をつり上げていた。
「おまえら、ここで何をやっとるんや」
別に、と菊池がぶっきらぼうにいった。
「おまえ、それ何や。何を持ってる」教師は菊池の封筒に目をつけた。「ちょっと見せてみい」
エロ写真か何かと疑ったようだ。菊池は面倒臭そうに封筒を教師に渡した。教師は中身を見て、眉のあたりの力をふっと抜いた。幾分拍子抜け、そして幾分期待外れ、というふうに雄一の目には映った。
「何や、この写真」怪訝そうに教師は菊池に訊いた。
「昔の町の写真です。秋吉から借りたんです」
教師は雄一のほうを向いた。「ほんまか」
「本当です」と雄一は答えた。
教師はしばらく写真と雄一の顔を見比べた後、写真を封筒に戻した。
「勉強に関係のないものを学校に持ってくるな」
「はい、すみません」雄一は謝った。
男性教師は周囲の足元を見回した。おそらく吸殻が落ちていないかどうかを調べているのだろう。幸い、それは見つからなかった。教師は無言で、封筒を菊池に返した。
昼休み終了のチャイムが鳴ったのは、その直後だった。
この日の放課後、雄一はまたしても清華女子学園中等部に行ってみた。しかし今日のお目当ては唐沢雪穂ではない。
しばらく塀《へい》に沿って歩いた。
その足が止まったのは、彼の耳が目的の音を捉えたからだった。目的の音、すなわちバイオリンを弾く音だ。
彼は周囲を見回し、誰も見ていないことを確認すると、迷わず金網によじ上った。すぐ目の前に灰色の校舎が建っている。一階の窓が雄一の正面にあった。窓は閉まっていたが、カーテンは開放状態だ。だから中の様子はよく見える。
女子生徒が一人、雄一のほうに背中を向けて座っていた。彼女の前にあるのは黒いピアノだ。鍵盤に両手を置いている。
やった、と雄一は心の中で叫んだ。ここが音楽室だ。
雄一は身体の角度を変えたり、首を伸ばしたりした。ピアノの向こうに、もう一人立っていた。セーラー服姿で、バイオリンを弾いている。
あれがフジムラミヤコか。
唐沢雪穂よりは小柄に見える。髪は短めか。顔をよく見たかったが、教室の中はひどく薄暗い。窓ガラスの反射も邪魔だった。
彼がさらに首を伸ばした時だった。バイオリンの音がぴたりとやんだ。それだけでなく、彼女が窓のほうへ近づいてくるのが見えた。
雄一のすぐ前の窓ガラスが開けられた。勝ち気そうな顔をした女子生徒が、彼のことを真っ直ぐに睨みつけてきた。突然のことで、彼は金網から降りることもできなかった。
「ガイチュウッ」
フジムラミヤコと思われる女子生徒が叫んだ。その声に庄倒されたように、雄一は手を離してしまった。何とか足から落ちたので、尻餅《しりもち》をついたが怪我はしないで済んだ。
中で誰かが叫んでいる。やばい、逃げろ――雄一は駆けだした。
「ガイチュウ」とは「害虫」のことかと気づいたのは、逃げ延びて、ほっとひと息ついた時だった。