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白夜行3-5
日期:2017-01-17 09:35  点击:543
 夏休みが近づいていた。七月に入って第二週目の火曜日だった。
 名前を呼ばれて受け取った英語の答案用紙を見て、友彦は目をつぶりたくなった。覚悟はしていたが、これほどひどいとは思わなかった。この学期末試験はどの教科も散々だ。
 考えなくても原因ははっきりしている。試験勉強らしきものを全くしなかったからだ。彼はたまに万引きをする程度に不良の要素を持ってはいるが、試験前には一応勉強をするふつうの生徒だった。今回ほど何の準備もしなかったことは過去に一度もない。
 だが正確にいうと準備をしなかったわけではなかった。机に向かい、せめてヤマを張る程度の勉強はしようと思った。
 ところがそれすらもできないほど、心は別のことに捕らわれていた。どんなに勉強に集中しようと思っても、脳はそのことを彼に思い出させるばかりで、肝心なことを受け入れようとはしないのだった。
 その結果がこれだ。
 おふくろに見つからないようにしないとな――ため息を一つついて、答案用紙をバッグにしまった。
 この日の放課後、友彦は心斎橋にある新日空ホテルの喫茶ラウンジに行った。中庭をガラス越しに見られる、明るくて広い店だ。
 彼が行くと、いつもの隅の席で、花岡夕子が文庫本を読んでいた。白い帽子を深くかぶり、縁の丸いサングラスをかけている。
「どうしたの、顔を隠して」彼女の向かいに座りながら友彦は訊いた。
 彼女が答える前に、ウェイトレスが近づいてきた。「いや、俺はいい」と彼は断った。ところが夕子がいった。
「飲み物か何か頼んで。ここで話をしたいから」
 まるで余裕のない彼女の口調に、友彦はちょっと戸惑った。
「じゃあ、アイスコーヒー」とウェイトレスにいった。
 夕子は、三分の一ほど減っているカンパリソーダに手を伸ばし、ごくりと飲んだ。それからほっと息を吐いた。「学校はいつまでだっけ?」
「今週いっぱいまで」と友彦は答えた。
「夏休みにアルバイトはするの?」
「バイトって……ふつうのバイトのこと?」
 友彦がいうと、夕子は少しだけ唇をほころばせた。
「そうよ。決まってるでしょ」
「今のところ、するつもりはない。こき使われるわりに、大した金にならへんもん」
「ふうん」
 夕子は白いハンドバッグからマイルドセブンの箱を取り出した。だが抜き取った煙草を指先に挟んだまま、火をつけようとしなかった。苛立っているように友彦には見えた。
 アイスコーヒーが運ばれてきたので、友彦はそれを一息で半分ほど飲んだ。喉がひどく渇いていた。
「ねえ、どうして部屋に行かへんの」声を低くして彼は訊いた。「いつもはすぐに部屋へ行くのに」
 夕子は煙草に火をつけ、たて続けに煙を吐いた。そしてまだ一センチも吸っていないにもかかわらず、ガラスの灰皿の中でもみ消した。
「ちょっとまずいことになっちゃった」
「何?」
 友彦が訊いても、夕子はすぐに答えなかった。そのことが彼を余計に不安にさせた。どうしたんだよ、と身をテーブルの上に乗り出して訊いた。
 夕子は周りを見回してから、彼のほうを真っ直ぐに見た。
「おじさんに気づかれたみたい」
「おじさん?」
「あたしの旦那さん」彼女は肩をすくめた。精一杯、おどけて見せたつもりなのだろう。
「旦那さんにばれてしもたの?」
「完全にばれたわけではないけど、それに近い状態」
「そんな……」友彦は言葉を失った。全身の血が逆流したように身体が熱くなった。
「ごめんね、あたしが不注意だったの。絶対に気づかれたらいけなかったのに」
「どうしてばれたんやろ」
「誰かに見られたみたい」
「見られた?」
「あたしとトモ君がいるところを、知り合いに見られたらしいの。その知り合いが、あの人に教えたみたい。お宅の奥さん、えらい若い男と楽しそうにしゃべっとったで、という具合にね」
 友彦は周囲を見回した。途端に人の目が気になりだした。そのしぐさを見て、夕子は苦笑した。
「でも主人によると、最近のあたしの様子から、何かおかしいとは思てたらしいの。雰囲気が変わったんだって。そういわれたら、そうかもしれない。トモ君と付き合うようになってから、自分でもいろいろと変わったと思うもの。だからこそ気をつけなきゃいけなかったのに、ぼんやりしてたなあ」帽子の上から頭を掻き、首を振った。
「何か訊かれたの?」
「相手は誰だっていわれた。名前をいえって」
「いうたの?」
「いうわけないやない。それほどあほやないわよ」
「それはわかってるけど……」友彦はアイスコーヒーを飲み干し、それでもまだ喉の渇きは癒されなかったので、グラスの水をがぶりと飲んだ。
「とりあえず、その場はとぼけ通した。今のところ、まだあの人も証拠は掴んでないみたい。でも、時間の問題かもしれない。あの人のことやから、私立探偵を雇うかも」
「そんなことになったらヤバいね」
「うん、ヤバい」夕子は頷いた。「それに、ちょっと気になることがあるし」
「気になること?」
「アドレス帳」
「アドレス?」
「あたしのアドレス帳が勝手に見られた形跡があるの。ドレッサーの引き出しに隠してあったんだけど……。見るとしたら、あの人しかいない」
「そこに俺の名前、書いてあるの?」
「名前は書いてない。電話番号だけ。でも気づかれたかもしれへん」
「電話番号から、名前とか住所もわかるのかな」
「さあ。でもその気になったら、いくらでも調べられるかもしれない。あの人、いろいろとコネクションを持ってるし」
 夕子の言葉からイメージされる彼女の夫の像は、友彦を怖がらせた。大人の男から本気で憎まれるなどという事態は、これまで空想したことさえなかった。
「それで、どうしたらええの」友彦は訊いた。
「とりあえず、しばらくは会わんようにしたほうがいいと思う」
 夕子の言葉に、彼は力無く頷いた。彼女のいうことが妥当だということは、高校二年の彼にも理解できた。
「じゃ、部屋に行こうか」カンパリソーダを飲み干すと、伝票を手に夕子は立ち上がった。
 二人の関係は、約一か月続いていた。最初の出会いは、無論あのマンションでの出来事だ。あの時のポニーテールの女が花岡夕子だった。
 好きになったわけではない。ただ、あの初体験の時に得た快感が忘れられなかっただけだ。友彦はあの日以後、何度か自慰にふけったが、その際脳裏に浮かぶのは、いつもあのポニーテールの女だった。当然といえた。どんなに過激なことを想像してみても、実際の記憶以上に刺激を得られるはずがない。
 結局友彦はマンションでの出来事があった三日目に、彼女に電話していた。彼女は喜んで、二人だけで会うことを提案した。彼もその誘いに乗った。
 花岡夕子という名前は、その時にホテルのベッドの中で聞いた。三十二歳ということだった。友彦も本名をしゃべっていた。学校名も、自宅の電話番号も教えていた。桐原との約束のことは、敢えて考えないようにした。彼は大人の女の技に、思考力をなくすほど翻弄《ほんろう》されていた。
「若い男の子とおしゃべりできるパーティがあるって友達から誘われたの。ほら、この間いたショートヘアの彼女。それでちょっと面白そうだと思って行ってみたわけ。彼女のほうは何度か経験があるみたいだったけれど、あたしはあの時が初めて。だから、どきどきしてたんよ。でも友彦君みたいな素敵な子が来てくれてよかった」そういって夕子は友彦の腋《わき》の下に入った。大人の女は、甘えるのも巧みだった。
 驚かされたのは、彼女が桐原に支払ったのは、二万円だということだった。つまり一万円強を桐原がピンハネしていることになる。道理でまめに働くはずだと合点した。
 週に二度か三度、友彦は夕子と会った。彼女の夫はかなり忙しい人物らしく、少しぐらい彼女の帰宅が遅くなっても平気だということだった。ホテルを出る時、お小遣いだといって、いつも五千円札を彼に渡した。
 こんなことではいけないと思いつつ、友彦は人妻と会い続けた。彼女とのセックスに溺《おぼ》れていた。学期末試験が近づいても、その状態に変わりはなかった。その結果が、今度の試験結果に如実に表れたのだった。
「しばらく会われへんのなんか、いややな」夕子の上に重なった状態で友彦はいった。
「あたしかていやよ」彼の下で彼女はいった。
「なんとかならへんのかな」
「わかんない。でも、今はちょっとまずいと思うわ」
「今度会えるのは、いつやろ」
「いつかしらねえ。早いとええんやけど。あんまり間が空くと、あたし、もっとおばさんになってしまうから」
 友彦は彼女の細い身体を抱きしめた。そして若さに任せ、執拗《しつよう》に責め続けた。今度いつ会えるかわからないから、思い残すことがないよう、全身のエネルギーを彼女の身体にぶつけた。彼女は何度か絶叫した。その際には身体を弓のように後ろへ反らせ、両手両足を伸ばし、痙攣《けいれん》させた。
 異変は三度目の性行為を終えた後に起こった。
「トイレに行ってくる」と夕子はいった。けだるいような言い方は、こういう時の常だった。
 どうぞ、といって友彦は彼女の身体を離した。彼女は裸の半身を起こしかけた。ところが、「うっ」という小さな声を漏らしたかと思うと、ぱたんとまたベッドに寝てしまった。立ち眩《くら》みでもしたのだろうと友彦は思った。そういうことがこれまでにもよくあったからだ。
 ところがそのまま彼女は動こうとしなかった。眠っているのかと思い、彼は身体を揺すってみた。だが全く起きる気配がない。
 友彦の頭に、ある想像が浮かんだ。不吉な想像だった。彼はベッドから出ると、おそるおそる彼女の瞼《まぶた》をつついてみた。それでも反応は全くなかった。
 彼は全身が震えだすのを止められなかった。まさかと思った。まさか、そんなひどいことが起きるはずがない――。
 彼は彼女の薄い胸を触った。だが事態は彼の想像したとおりだった。心臓の鼓動が感じられなくなっていた。

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