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白夜行4-3
日期:2017-01-17 09:39  点击:370
 正晴が唐沢雪穂の生い立ちについて思い出したのは、礼子の話を聞いてから半月程が経った頃だ。中之島《なかのしま》にある府立図書館で、友人の調べものに付き合っている最中だった。友人というのはアイスホッケー部の同期で垣内《かきうち》といった。彼はあるレポートを書くために、過去の新聞記事を調べていた。
「ははは、そうやそうや、あの頃や。俺もよう買いに行かされたわ、トイレットペーパー」垣内は広げた縮刷版を読み、小さな声でいった。机の上には十二冊の縮刷版が載っていた。昭和四十八年七月から四十九年六月までの分で、一か月ごとに一冊に纏《まと》めてある。
 正晴は横から覗き込んだ。垣内が読んでいたのは、四十八年十一月二日の記事だ。大阪の千里ニュータウンのスーパーマーケットで、トイレットペーパーの売場に約三百人の客が殺到したとある。
 いわゆるオイルショックの話だ。垣内は電気エネルギー需要について調査しているので、この時期のこういう記事にも目を通す必要があるのだろう。
「東京でもあったのか? 買い占め騒ぎ」
「あったらしいよ。でも首都圏では、トイレットペーパーよりも洗剤じゃなかったかな。いとこが何度も買いに行かされたと言ってた」
「ふうん、たしかにここに、多摩のスーパーで四万円分の洗剤を買《こ》うた主婦がおるて書いてあるわ。まさか、おまえのところの親戚やないやろな」垣内がにやにやしていう。
 馬鹿いうなよ、と正晴は笑って応えた。
 自分はあの頃何をしていたかなと正晴は考えた。彼は当時高校一年だった。大阪に越してきてからまださほど間がなく、地域に慣れるのに苦労していた。
 ふと雪穂は何年生だったのかなと考えた。頭の中で数えると、小学五年生ということになった。だが彼女の小学生姿というのは、あまりうまくイメージできなかった。
 唐沢礼子の話を思い出したのは、その直後だ。
「事故で亡くなったんです。たしか雪穂が六年生になって、すぐの頃だったと思います。五月……だったかしら」
 雪穂の実母に関する話だ。彼女が六年生ということは、昭和四十九年だ。
 正晴は縮刷版の中から四十九年五月の分を選び、机の上で開いた。
『衆議院本会議 大気汚染防止法改正を可決』、『ウーマンリブを主張する女性ら優生保護法改正案に反対し衆院議員面会所で集会』といった出来事がこの月にはあったようだ。日本消費者連盟発足、東京都江東区にセブン-イレブン一号店がオープンといった記事も目についた。
 正晴は社会面を見ていった。やがて一つの小さな記事を見つけた。『ガスコンロの火が消えて中毒死 大阪市生野区』という見出しがついている。内容は次のようなものだ。
『二二日午後五時ごろ、大阪市|生野《いくの》区大江西七丁目吉田ハイツ一〇三号室の西本文代さん(三六)が部屋で倒れているのをアパートの管理会社の社員らが見つけ、救急車を呼んだが、西本さんはすでに死んでいた。生野署の調べでは、発見当時部屋にはガスが充満しており、西本さんは中毒死を起こしたと見られている。ガス漏れの原因については調査中だが、ガスコンロにかけたみそ汁がふきこぼれており、それにより火が消えたことに西本さんが気づかなかった可能性があるという。
 これだ、と正晴は確信した。唐沢礼子から聞いた話とほぼ一致している。発見者に雪穂の名前が出てこないが、それは新聞社が配慮したのだろう。
「何を一所懸命に読んでるんや」垣内が横から覗き込んできた。
「いや、別に大したことじゃないんだけど」正晴は記事を指し、バイトで教えている生徒の身に起きた事件だということを話した。
 垣内はさすがに驚いたようだ。「へえ、新聞に載るような事件に関係してるとは、すごいやないか」
「俺が関係してるわけじゃないよ」
「けど、その子供を教えてるわけやろ」
「それはそうだけどさ」
 ふうん、と妙に感心したように鼻を鳴らしながら、垣内はもう一度記事を見た。
「生野区大江か。内藤の家の近所やな」
「へえ、内藤の? 本当かい」
「うん。たしかそうやった」
 内藤というのはアイスホッケー部の後輩だ。正晴たちよりも一学年下である。
「じゃあ今度、内藤に訊いてみるかな」正晴はそういいながら、新聞記事に記載されている吉田ハイツの住所をメモした。
 しかし彼がこのことで内藤に話をしたのは、それからさらに二週間後だった。四年生になれば、実質的にアイスホッケー部を引退しているため、めったに後輩たちと顔を合わせないのだ。正晴が部室を訪ねたのも、運動不足のせいで太りかけてきたため、少し身体を動かそうと思ったからだった。
 内藤は小柄で痩せた男だ。スケーティングの技術は高いものを持っているが、体重が少ないためにコンタクトプレーをするにしても当たりが弱い。要するに、あまり強い選手ではなかった。だがよく気がつくし面倒見もいいので、幹部職として主務を担当していた。
 グラウンドでのトレーニングの合間に、正晴は内藤に話しかけた。
「ああ、あの事故ですか。知ってますよ。ええと、何年前やったかなあ」内藤はタオルで汗を拭きながら頷いた。「僕の家の、すぐ近くです。目と鼻の先というほどではないですけど、まあ歩いて行ける距離です」
「事故のこと、地元じゃわりと話題になったのか」正晴は訊いた。
「話題というかねえ、変な噂が流れたことがあったんです」
「変な噂?」
「ええ。事故やのうて自殺やないか、という噂です」
「わざとガス中毒死したっていうのか」
「はい」返事してから、内藤は正晴の顔を見返した。「何ですか、中道さん。あの事故がどうかしたんですか」
「うん、じつは知り合いが絡んでるんだ」
 彼は内藤にも事情を説明した。内藤は目を丸くした。
「へええ、中道さんがあそこの子供を教えてるんですか。へええ、それはすごい偶然ですねえ」
「別に俺にとっては偶然でも何でもないよ。それより、もう少し詳しい話を教えてくれよ。どうして自殺だっていう噂が流れたんだ」
「さあ、そこまでは知りません。僕もまだ高校生でしたし」内藤はいったん首を傾げたが、すぐに何かを思い出したように手を叩いた。「あっ、そうや。もしかしたら、あそこのおっさんに訊いたら、何かわかるかもしれへん」
「あそこのおっさんって、誰だ」
「僕が駐車場を借りてる不動産屋のおっさんです。アパートでガス自殺をされて、えらい目に遭《お》うたことがあるというようなことを、前にいうてました。あれ、あそこのアパートのことと違うやろか」
「不動産屋?」正晴の頭の中で閃《ひらめ》くものがあった。「それ、死体の発見者じゃないのか」
「えっ、あのおっさんがですか」
「死体を見つけたのは、アパートを貸してた不動産屋らしいんだ。ちょっとたしかめてくれないか」
「あ……それはかまいませんけど」
「頼むよ。もう少し詳しいことを知りたいんだ」
「はあ」
 体育会において先輩後輩の関係は絶対的だ。厄介な頼み事をされて内藤は困惑したようだが、頭を掻きながら頷いた。
 翌日の夕方、正晴は内藤の運転するカリーナの助手席に座っていた。内藤が従兄《いとこ》から三十万円で買い取った中古車だということだった。
「悪いな。面倒臭いことを頼んで」
「いや、僕は別に構いませんよ。どうせ家の近所ですし」内藤は愛想よくいった。
 前日の約束を、後輩は即座に果たしてくれたらしかった。このカリーナ用の駐車場を仲介した不動産屋に電話し、五年前のガス中毒事件の発見者かどうかを確認してくれたのだ。その答えは、死体を発見したのは自分ではなく息子のほうだ、というものだった。その息子は現在、深江橋《ふかえばし》で別の店を出しているらしい。深江橋は東成《ひがしなり》区であり、生野区よりも少し北にある。簡単な地図と電話番号を書いたメモが、今は正晴の手の中にある。
「けど、中道さんはやっぱり真面目ですねえ。やっぱりあれでしょ。教え子のそういう生い立ちのことも知っておいたほうが、家庭教師で教える上で役に立つということでしょ。僕はバイトでは、とてもそこまで出来ませんわ。もっとも、僕に家庭教師のくちは来ませんけど」
 内藤は感心したようにいった。彼なりに納得しているようなので、正晴は何もいわないでおいた。
 じつのところ、自分でも何のためにこんなことをしているのかよくわからなかった。もちろん彼は自分が雪穂に強くひかれていることを自覚している。しかし、だからといって彼女のすべてを知りたいと思っているわけではなかった。過去のことなどどうでもいいというのが、ふだんの彼の考え方だった。
 たぶん現在の彼女を理解できていないからだろうなと彼は思った。身体が触れるほど近くにいながら、そして親しげに言葉を交わしていながら、彼女の存在をふっと遠くに感じることがあるのだ。その理由がわからなかった。わからずに焦っている。
 内藤がしきりに話しかけてきた。今年入った新入部員のことだ。
「どんぐりの背比《せいくら》べというところですわ。経験者が少ないですから、やっぱり今度の冬が勝負です」自分の取得単位数よりもチームの成績のほうが気になるという内藤は、少し渋い顔でいった。
 中央大通と呼ばれる幹線道路から一本内側に入ったところに、田川不動産深江橋店はあった。阪神高速道路東大阪線高井田出入口のそばである。
 店では痩せた男が机に向かって書類に何か記入しているところだった。見たところ、ほかに従業員はいないようだ。男は二人を見て、「いらっしゃい。アパート?」と訊いてきた。部屋探しの客だと思ったらしい。
 内藤が、吉田ハイツの事故について話を聞きたくて来たという意味のことをいった。
「生野の店のおっちゃんに訊いたら、事故に立ち会《お》うたんは、こっちの店長やと教えてくれはったんです」
「ああ、そうやけど」田川は警戒する目で、二人の若者の顔を交互に見た。「今頃なんでそんな話を聞きたいんや」
「見つけた時、女の子が一緒だったでしょ」正晴はいった。「雪穂という子です。その頃の名字は西本……だったかな」
「そう、西本さんや。おたく、西本さんの親戚の人?」
「雪穂さんは、僕の教え子なんです」
「教え子? ああ、学校の先生かいな」田川は納得したように頷いてから、改めて正晴を見た。「えらい若い先生ですな」
「家庭教師です」
「家庭教師? ああ、そうか」田川の視線に見下したような色が浮かんだ。「どこにいるの、あの子。母親が死んでしもうて、身寄りがなくなったんやなかったかな」
「今は親戚の人の養女になってますよ。唐沢という家ですけど」
「ふうん」田川はその名字に関心はないようだった。「元気にしてるんかな。あれ以来、会《お》うてへんけど」
「元気ですよ。今、高校二年です」
「へえ。もうそんなになるか」
 田川はマイルドセブンの箱から一本抜き取り、口にくわえた。それを見て、意外にミーハーなところがあるらしいと正晴は思った。マイルドセブンが発売されたのは二年ちょっと前だが、味が悪いという評価のわりに、新しもの好きの若者を中心にうけている。正晴の友人も、大半がセブンスターから乗り換えた。
「で、あの子があの事件のことでおたくに何かいうたんか」煙をひと吐きしてから田川は訊いた。この男は相手が年下だと見ると、横柄な口調になるらしい。
「田川さんには、いろいろと世話になったといってましたよ」
 無論、嘘だ。雪穂とは、この話をしたことはない。できるはずがなかった。
「まあ、世話というほどでもないけどな。とにかくあの時はびっくりした」
 田川は椅子にもたれ、両手を頭の後ろで組んだ。そして西本文代の死体を見つけた時のことを、かなり細かいところまで話し始めた。ちょうど暇を持て余していたところだったのかもしれない。おかげで正晴は事故の概要を、ほぼ掴《つか》むことができた。
「死体を見つけた時よりも、その後のほうが面倒やったな。警察からいろいろと訊かれてなあ」田川は顔をしかめた。
「どんなことを訊かれたんですか」
「部屋に入った時のことや。俺は、窓を開け放して、ガスの元栓を閉めた以外には、どこにも触ってないっていうたんやけど、何が気に入らんのか、鍋に触れへんかったかとか、玄関には本当に鍵がかかってたかとか訊かれてなあ、あれはほんまに参ったで」
「鍋に何か問題でもあったんですか」
「よう知らん。味噌汁がふきこぼれたんなら、鍋の周りがもっと汚れてるはずやとかいうてたな。そんなこといわれたかて、事実ふきこぼれて火が消えとったんやからしょうがないわな」
 田川の話を聞きながら、正晴はその状況を思い浮かべていた。彼もインスタントラーメンを作る時など、うっかりして鍋の湯をふきこぼしてしまうことがある。そんな時、たしかに鍋の周りは汚れてしまう。
「それにしても、そんなふうに家庭教師までつけてくれる家にもらわれていったんやったら、結果的にあの子にとってはよかったんやないか。あんな母親と暮らしてたんでは、苦労するばっかりやったと思うしな」
「何か問題のある人だったんですか」
「人間的に問題があったかどうかはわからんけど、何しろ生活が苦しかったはずや。うどん屋か何かで働いてたようやけど、家賃を払うのがやっとやったんじゃないか。その家賃にしても、なんぼか溜まってたしな」田川は煙草の煙を宙に向かって吐いた。
「そうなんですか」
「そんな苦労をしてたせいかもしれんけど、あの雪穂ていう子も、妙に醒《さ》めたところがあった。何しろ母親の死体を見つけた時も、涙は見せへんかったんやからな。あれはちょっとびっくりしたで」
「へえ……」
 正晴は意外な気持ちで不動産屋の顔を見返した。文代の葬式では、雪穂はわあわあ泣いたという話を、礼子から聞かされていたからだった。
「あれは一時、自殺やないかっていう説も出ましたよね」内藤が横から口を挟んだ。
「ああ、そうやったな」
「どういうことですか」正晴は訊いた。
「そう考えたほうが筋が通るということが、いくつかあったらしいわ。俺のところへ何遍もやって来た刑事から聞いた話やけどね」
「筋が通るって?」
「何やったかな。もうだいぶ前のことやから、忘れてしもたなあ」田川はこめかみのあたりを押さえていたが、やがて顔を上げた。「ああ、そうや。西本の奥さん、風邪薬を飲んでたんやった」
「風邪薬? それがどうかしたんですか」
「ふつうの量ではなかったんや。空き袋から考えると、一回にふつうの五倍以上飲んだ形跡があったらしい。たしかあの時は解剖もされて、そのことが裏づけられたとかいう話やった」
「五倍以上……というのはおかしいですね」
「眠るために飲んだんやないかと警察では疑うたわけやな。ガスを出して、睡眠薬を飲むという自殺方法があるやろ? 睡眠薬はなかなか手に入らへんから、風邪薬で代用したんと違うかと考えたわけや」
「睡眠薬代わり……か」
「かなり酒を飲んだ形跡もあったらしいで。カップ酒を空けたやつが、ゴミ箱に三つほど入ってたそうや。あの奥さん、ふだんは殆ど酒を飲まへんかったという話やから、これもまた眠るためと考えられるやろ?」
「そうですね」
「ああ、そうや。それから窓のことがある」記憶が蘇ってきたせいか、田川は雄弁になってきた。
「窓?」
「部屋の鍵が全部かかってたのはおかしい、という意見があったようや。あの部屋の台所には換気扇がついてなかったから、炊事をする時には窓を開けるのがふつうやないかというわけや」
 田川の話に正晴は頷いた。そういわれれば、なるほどそうだ。
「でも」と彼はいった。「うっかりしていた、ということもありえますよね」
「まあな」田川は頷いた。「せやから、自殺説を強力に押すほどの根拠とはいわれへん。風邪薬やカップ酒にしてもそうや。ほかに説明がつかんわけやない。それに何より、あの子の証言があったしな」
「あの子というのは……」
「雪穂ちゃんや」
「どういう証言ですか」
「別にさほど特別なことはいうてへん。おかあさんは風邪をひいてたて証言しただけや。寒気がする時には日本酒を飲むこともあったともいうてた」
「あ、そういうことですか」
「刑事なんかは、それにしてもあの薬の量はおかしいというてたけれど、どういうつもりで飲んだのかは、死んだ本人に尋ねてみんことにはわからんしな。それに自殺するのに、わざわざ鍋の味噌汁をふきこぼすなんちゅうことはせんやろ。まあ、そういうようなわけで、結局事故ということで片づいたわけや」
「警察は、その鍋のふきこぼしにも疑問を持ってたんですかね」
「さあな、どうなんかなあ。まあ、そんなことはどっちでもええことや」田川は短くなったマイルドセブンを、灰皿の中でもみ消した。「警察の話では、発見があと三十分早かったら助かったかもしれんということやった。自殺にしろ事故にしろ、あの人は死ぬ運命にあったということと違うか」
 彼が話し終えるのとほぼ同時に、正晴たちの後ろから客が入ってきた。中年の男女だった。いらっしゃい、と田川は新たな客を見て声をかけた。営業用の愛想笑いになっていた。もうこれ以上は自分たちに付き合ってくれることはないだろうと思い、正晴は内藤に目配せして店を出た。

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