テレビでは、つまらないワイドショーかニュース番組しかやっていなかった。江利子は、布団の上に転がしてあったルービックキューブに手を伸ばした。昨年大流行したこのパズルも、今ではすっかり忘れ去られている。難解ということで話題になったのに、解法が知れ渡るや、小学生でもあっという間に完成させられるようになってしまったからだ。それでも江利子は、未だに悪戦苦闘している。四日前にこれを持ってきた雪穂から、ある程度のコツを教わっているにもかかわらず、全く進展なしだ。
あたしは何をやってもだめだな、と改めて思った。
ノックの音がした。はい、と答えると、母の声がした。「雪穂さんが来てくれたわよ」
「あっ、入ってもらって」
間もなく、別の足音が聞こえた。ゆっくりとドアが開き、雪穂の白い顔が覗いた。
「寝てたの?」
「ううん。これをしてた」ルービックキューブを見せた。
雪穂は微笑みながら入ってきた。椅子に座る前に、「これ」といって箱を見せた。江利子の大好物であるシュークリームの箱だった。ありがとう、と江利子は礼をいった。
「後で紅茶を持ってきてくれるって。おかあさんが」
「そう」頷いてから、江利子はおそるおそる尋ねた。「彼に会ってくれた?」
「うん」と雪穂は答えた。「会ったよ」
「それで……伝えてくれた?」
「伝えた。辛かったけど」
「ごめんね。いやなことをさせて」
「ううん、それはいいんだけど」雪穂は手を伸ばし、江利子の手を優しく握った。「気分はどう? 頭はもう痛くない?」
「うん。今日はだいぶ平気」
襲われた時、クロロホルムを嗅《か》がされた。その時の後遺症で、しばらくは頭痛がおさまらなかったのだ。もっとも医者によると、精神的なものが大きいのではないかという話だった。
あの夜、いつまでも帰ってこない娘のことを心配した母親が、駅まで迎えに行く途中、トラックの荷台の中で倒れていた江利子を発見したのだった。江利子はまだ昏睡状態だった。その不快な眠りから覚めた時のショックは、一生忘れられないだろうと彼女は思っている。あの時傍らでは、母が声を出して泣いていたのだ。
さらに数日後に送られてきた、あのおぞましい写真。差出人は不明で、何のメッセージも書かれていない。それだけに、犯人の底深い悪意がこめられているようで、江利子は震撼《しんかん》した。
もうこれからは決して目立たず、人の陰に隠れて生きていこうと彼女は決めていた。今までだってそうしてきたのだ。それが自分にふさわしい。
悲惨極まりない出来事だったが、一つだけ救いがあった。じつに奇妙なことだが、彼女の処女は奪われていなかった。全裸にし、無惨な写真を撮ることだけが、犯人の目的だったらしい。
両親が警察に届けないことを決心した理由はそこにある。下手に騒げば、どんな噂をたてられるかわかったものではない。事件のことが知れれば、誰もが彼女のことを、犯されたと思うだろう。
江利子は中学時代のある事件を思い出した。帰宅途中に同級生が襲われた事件だ。下半身を裸にされていた彼女を発見したのは、江利子と雪穂だった。
被害者である藤村都子の母親は、江利子たちにこういった。幸い、服を脱がされただけで、身体を汚されてはいなかった、と。あの時は、そんなことがあるんだろうかと思ったが、同じ目に遭ってみて、そういうこともあるのだと知った。そしてやはり自分の場合も、他人は信じてくれないに違いないと思った。
「早く元気になってね。力になるから」雪穂がいった。江利子の手を強く握ってくる。
「ありがとう。雪穂だけが支えよ」
「うん。あたしのそばにいれば大丈夫だからね」
その時テレビからアナウンサーの声が聞こえてきた。
「銀行口座の預金が、本人の全く知らないうちに引き出されるという事件が起きました。被害に遭ったのは東京都内のサラリーマンで、今月十日に銀行の窓口で預金を引き出そうとしたところ、約二百万円あったはずの残高がゼロになっていました。調べてみると、四月二十二日までに、三協銀行府中支店で七回、キャッシュカードによって引き出されていることがわかりました。この男性は銀行の勧めるまま五十四年ごろキャッシュカードを取得しましたが、これまで一度も使ったことがなく、カードは事務所の机の中に眠っていたということです。警察では、何者かがカードを偽造した可能性があるとみて、捜査を――」
雪穂がテレビのスイッチを切った。