高電圧工学の講義は眠かった。出欠をとらないうえに、試験の時に楽勝でカンニングが出来るという噂が流れているせいで、五十人以上が座れる講義室に、十数人の学生が座っているだけだった。友彦は前から二列目の椅子に座り、時折ふっと意識が途切れそうになるのをこらえながら、白髪の助教授がスローな口調で話すアーク放電やグロー放電のメカニズムを、ノートにメモしていった。手を動かしていなければ、すぐにも机に突っ伏してしまいそうなのだ。
園村友彦は真面目な学生、ということで通っていた。少なくとも、信和《しんわ》大学工学部電気工学科では、皆からそう思われていた。実際彼は、受講を申請した講義には、確実に出席している。彼がサボタージュするのは、法学とか芸術学とか一般心理学といった、およそ電気工学とは無縁の教養課程にかぎられていた。彼はまだ二年生だったので、こういった内容の講義も、数多くカリキュラムに組み込まれているのだ。
友彦が専門課程の講義を真面目に聞く理由は、殆ど一つだった。そうするように桐原亮司から命じられているからだ。ビジネスのためだという。
もともと友彦が電気工学科を選んだこと自体、桐原の影響が小さくなかった。高校三年の時点で理数の成績がよかったので、工学部か理学部に進もうとは思っていた。しかし学科までは決めかねていた。そんな彼に桐原がいったのだ。
「これからはコンピュータの時代や。おまえがそういう方面の知識を仕入れてくれたら、俺も助かる」
この頃桐原は、例のゲームプログラムを通信販売する仕事を続けて、かなりの成果を上げていた。友彦も、プログラムの開発などを手伝っていた。桐原が「助かる」といったのは、自分の事業を展開していくのに、という意味だったのだろう。
これに対して友彦は、そんなにいうなら自分が進めばいいじゃないか、と桐原にいったことがある。桐原も、友彦に勝るとも劣らないほど理数科の成績がよかったからだ。
だがこの時彼は、頬を少しひきつらせたような笑みを浮かべた。
「大学に行く余裕があったら、こんな商売やってへんわ」
この時初めて友彦は、彼が進学しないことを知った。同時に、それならば自分が電気やコンピュータの知識を身につけようと決心した。ただ漠然と進路を決めるより、誰かの役に立つという目的のもとに決定したほうが、進学する意味が濃いと思った。
また友彦には桐原に対して、何年かかっても返さねばならない恩というものが存在した。あの高校二年の夏の出来事は、今も彼の心に深い傷となって残っている。
こうした理由から、友彦は専門課程の講義をできるかぎり真面目に受けようと決めたのだが、驚いたことに、彼がそうやってノートにまとめたものを、桐原はじつに熱心に読むのだった。そのノートの内容を理解するために、専門書を横に置いたりもしている。桐原は信和大学の講義には一度も出ていないが、まず間違いなく、最も講義内容を理解している人間だった。
そんな桐原が、このところ興味を持っているものがある。キャッシュカードやクレジットカードなどの、いわゆる磁気カードだ。
最初に手を出したのは、友彦が大学に入学して間もなくの頃だった。きっかけは、友彦がある装置を大学内で目撃したことだ。磁気テープに打ち込まれた情報を読んだり、その情報を書き換えたりできるその装置は、エンコーダーと呼ばれた。
その装置の話を聞くと、桐原の目の色が変わった。そしてこんなことをいった。
「それを使《つこ》たら、キャッシュカードの複製なんかも作れるわけや」
「そりゃあ作れるかもしれないな」と友彦は答えた。「けど、作っても意味がないんやないか。キャッシュカードを使うには暗証番号が必要やろ。だからこそ、キャッシュカードというのは、万一落としても安心なんやないか」
「暗証番号か」
その後桐原は黙って何事か考えている様子だった。
彼がマイコンプログラムの事務所に、ラジカセぐらいの大きさの段ボール箱を運び込んだのは、それから二、三週間が経った頃だ。その箱の中身はエンコーダーだった。磁気カードを挿入するところがあり、その情報を表示するパネルがついている。
「そんなものが、よう手に入ったな」
友彦がいうと、桐原は小さく肩を揺すって笑った。
この中古のエンコーダーを入手して間もなく、桐原は一枚のキャッシュカードを偽造した。そのオリジナルとなったカードが、誰のものなのかは友彦も知らない。何しろ桐原の手元にあったのは、ほんの数時間だけだったのだ。
桐原はそれを使って、二十数万円の金を二回に分けて引き出したようだった。驚くことに彼は、磁気カードに書き込まれている情報から、暗証番号を解読していたのだ。
だがこれには少しからくりがあった。じつはエンコーダーを入手する以前から、桐原は磁気カードのパターンを読むことに成功していたらしいのだ。
特別な機械を用いないで、どうやってパターンを解読するか。一度だけ桐原が実演して見せてくれたことがある。それはまさにコロンブスの卵だった。
彼が用意したのは磁石の微粉末だ。それをカードの磁気部分にふりかけた。間もなく友彦は、あっと声を上げた。
磁気テープ部分に、細かい縞模様が浮かび上がってきたのだ。
「結局はモールス信号みたいなものや」と桐原はいった。「予《あらかじ》め暗証番号のわかっているカードにこういうことをしてるうちに、パターンの意味が読めてきた。となると、今度はその逆や。暗証番号がわからんでも、パターンを浮かびあがらせたら解読できる」
「すると拾ったり盗んだりしたキャッシュカードも、こんなふうに磁石の粉をふりかけたら……」
「使えるということやな」
「なんと……」友彦は後に続く言葉が思いつかなかった。
そんな彼の様子がおかしかったのか、桐原が珍しく心底愉快そうに笑った。
「笑《わろ》てしまうわなあ。これのどこが安全やねん。銀行員はよう、通帳と印鑑を別々に保管してくれというけど、キャッシュカードというのは、金庫と鍵が一緒になってるようなものや」
「こんなことでいいと思ってるのかなあ」
「たぶん一部の関係者は知ってるんやろ。これがかなりやばい代物やということをな。けど、もう引っ込みがつかへんから黙ってるんや。ビクビクしながらな」桐原は、また笑い声を上げた。
だが桐原は、この秘密の技術を、すぐには活用しようとしなかった。本業のマイコンプログラム製作が忙しかったせいもあるが、何より、他人のカードなど、そう簡単には手に入らないということがあった。使ったのは、エンコーダーを入手した直後に、どこかのキャッシュカードを複製した時だけだった。しばらく、彼がカードの話をすることはなかった。
ところが今年になって、桐原がこんなことをいいだした。
「考えてみたら、他人のキャッシュカードを手に入れる必要なんかないんやな」狭い事務所で、古びたテーブルに向かってインスタントコーヒーを飲んでいる時のことだ。
「どういう意味や」と友彦は訊いた。
「要するに必要なのは現存する口座番号であって、暗証番号ではない。まあ考えてみたら当たり前のことやった」
「よくわからんな」
「つまりや」桐原は椅子にもたれ、テーブルに足をのせた。そして近くにあった名刺を手に取った。「これをキャッシュカードとする。このカードを機械に入れたら、機械は磁気テープに組み込まれた、いろいろな情報を読み取る。その中の一つが口座番号と暗証番号や。当然のことやけど、機械にはカードを入れた人間が本人かどうかはわからん。それを判断するために、暗証番号を押せという。磁気テープに記録された番号と同じ数字が押されたら、疑うことなく要求された金を吐き出す。ということは、磁気テープに何も記録されていない白紙のカードを持ってきて、そこに口座番号なんかの必要事項を記録し、最後に適当な暗証番号を入れたらどうや」
「あっ」
「そうやって作ったカードは、もちろん本物とは内容が違う。暗証番号が違ってるわけや。けどそれを機械に判定する力はない。機械が確認するのは、磁気テープに記録された番号と、人間が押す番号が一致するかどうかということだけや」
「じゃあ実在する口座番号がわかったら……」
「いくらでも偽物のキャッシュカードを作れるということになるな。偽物やけど、金はちゃんとおろせる」桐原は唇の端を曲げた。
友彦は全身に鳥肌が立った。今桐原がしゃべっていることが、決して夢物語でないということを理解したからだった。
それから二人で、偽のキャッシュカードを作り始めた――。
まずカードに記録されているコードを改めて分析してみた。その結果、始め符号、IDコード、承認コード、暗証番号、銀行コードなどが配列されていることを突き止めた。
次に、銀行のゴミ箱に捨てられた他人の口座の利用明細を多数拾い、突き止めた法則性にしたがって、口座番号や適当に決めた暗証番号を七十六桁の数字とアルファベットに変換した。
あとはそれをエンコーダーを使って磁気テープに打ち込み、プラスチックカードに張りつければ完成である。
先程、友彦が現金を引き出すことに成功した白いカードが、その完成品第一号だった。いくつか拾った利用明細の中から、最も残高が多い口座を選んだのだ。そのほうが発覚しにくいというのが桐原の意見だった。友彦も同感だった。
間違いなく犯罪だったが、友彦に罪悪感はなかった。一つには、偽造カードを作るまでの経過が、あまりにもゲーム的だったからかもしれない。また、金を盗む相手が全く見えないせいもあるだろう。だが何より、桐原からいつも聞かされている言葉が、頭に染みついていることが大きかった。
「落ちてるものを拾うのと、置き引きと、どう違う? 金の入ったカバンを、ぼんやり置いとくほうが悪いんと違うか。この世は隙を見せたほうが負けや」
この台詞を聞くたびに、戦慄《せんりつ》と共に、ぞくぞくするような快感も、友彦は覚えるのだった。