運命の日は、朝から雨模様だった。遅い朝食をすませた後、誠は自分の部屋でぼんやりと空を眺めていた。昨夜はよく眠れなかったせいで、ひどく頭が痛かった。
誠は、どうにかして三沢千都留に連絡をとれないものかと思案していた。彼女が今夜、品川のホテルに泊まることはわかっている。だから、いざとなったら訪ねていけばいいのだが、なるべくなら昼間のうちに会い、自分の本心を打ち明けてしまいたかった。
しかし連絡をとる手段が見つからなかった。個人的な付き合いを全くしていなかったから、電話番号も住所も知らない。派遣社員だから、当然職場の名簿にも彼女の名前は載っていない。
課長か係長ならば、知っているかもしれなかった。だが何といって尋ねればいいのか。それに彼等にしても、彼女の連絡先を記したものを、自宅に置いているとはかぎらなかった。
残された道は一つだった。これから会社へ行き、三沢千都留の連絡先を調べるのだ。土曜日だが、休日出勤している社員は少なくないはずだ。誠が職場で捜し物をしていても、咎《とが》められる心配はなかった。
善は急げと誠が椅子から立ち上がった時、玄関のチャイムが鳴った。嫌な予感がした。
約一分後、その直感が的中していたことを彼は確信した。誰かが階段を上がってくる音がした。スリッパを引きずるような独特の足音は、たぶん頼子のものだ。
「誠、雪穂さんがいらっしゃったわよ」頼子がドアの向こうでいった。
「彼女が? ……すぐに行くよ」
下りていくと、雪穂は居間で頼子や祖父母たちと紅茶を飲んでいた。彼女の今日の服装は、ダークブラウンのワンピースだった。
「雪穂さんがケーキを持ってきてくださったの。あなたも食べる?」頼子が訊いてきた。ひどく機嫌がよさそうだった。
「いや、俺はいいよ。それより、ええと、どうしてこっちに?」誠は雪穂を見た。
「旅行に持っていかなきゃいけないもので、いくつか買い忘れてたものがあるの。それで付き合ってもらおうと思って」彼女は歌うようにいった。アーモンド形の目が、宝石のようにきらきらと輝いて見えた。もうこの娘は花嫁の表情になっているのだなと思うと、誠は胸がきりきりと痛んだ。
「そう……。じゃあ、どうしようかな。ちょっと会社に寄る用があったんだけれど」
「何よ、こんな時に」頼子が眉間《みけん》に皺《しわ》を作った。「結婚式の前に休日出勤させるなんて、あなたの会社、どうかしてるんじゃないの」
「いや、仕事ってほどのことじゃないんだ。目を通したい資料があってさ」
「じゃあ、お買い物のついでに行けば?」雪穂がいった。「そのかわり、あたしもついていっていいでしょう? 休日なら職服もいらないから、社外の人間だって自由に出入りできるって、前にいってたじゃない」
「ああ、それはまあそうだけど……」
誠は内心うろたえていた。雪穂がこんなことをいいだすとは思いもしなかった。
「いやあねえ、会社人間は」頼子が唇を曲げた。「家庭と仕事と、どっちが大事なの?」
「わかったよ。別に急ぎでもないから、今日は会社に行くのはやめておく」
「本当? あたしならかまわないけど」雪穂がいった。
「いや、いいんだ。大丈夫だから」誠は婚約者に笑いかけた。頭の中では、三沢千都留への告白は今夜直接ホテルへ出向くことで果たそうと考えていた。
着替えるからといって雪穂を待たせ、誠は自分の部屋に戻った。そしてすぐに篠塚に電話をかけた。
「高宮だけど、例の件、大丈夫だな」
「うん。九時頃に行くつもりだ。それより、彼女に連絡はついたか」
「いや、やっぱり連絡先を掴《つか》めそうにない。おまけに、これから雪穂と買い物なんだ」
電話の向こうで篠塚がため息をついた。
「聞いているだけで、こっちまで辛くなる」
「すまん。いやなことに付き合わせて」
「まあ仕方ないさ。じゃ、九時に」
「よろしく」
電話を切り、着替えを済ませると、誠はドアを関けた。すると、廊下に雪穂が立っていたので、彼はぎくりとした。彼女は背中に手を回し、壁にもたれるような格好で彼のことを見つめていた。口元にうっすらと笑みを浮かべている。それはいつもの微笑《ほほえ》みとは、少し質の違ったものに見えた。
「遅いから、様子を見に来たの」と彼女はいった。
「ごめん。服を選んでたんだ」
さらに彼が階段を下りようとした時、雪穂は後ろから訊いてきた。「例の件って何?」
誠は思わず足を踏み外しそうになった。
「聞いてたの?」
「聞こえてきたのよ」
「そうか……仕事の話だよ」彼は階段を下り始めた。次に彼女が何を訊いてくるのか怖かったが、それ以後質問はなかった。
買い物は銀座ですることになった。三越や松屋といった有名デパートをはしごし、有名ブランドの専門店を覗《のぞ》いた。
旅行のための買い物をするという話だったが、雪穂は特に何も買う気はないように誠には見えた。それでそのことを指摘すると、彼女は肩をすくめ、舌を出した。
「本当は、ゆっくりデートがしたかったの。だって、今日はお互いにとって、独身最後の日なんだもの。いいでしょ?」
誠は小さく吐息をついた。よくない、とはいえなかった。
楽しそうにウィンドウショッピングをする雪穂の姿を眺めながら、誠はこの四年間のことを思い出していた。そして彼女に対する自分の気持ちを、改めて見つめ直していた。
たしかに、好きだから今日まで交際を続けてきた。しかし、結婚を決意することになった直接の理由は何だろうか。彼女への愛情の深さだろうか。
残念ながらそうではないかもしれない、と誠は思った。結婚のことを真剣に考え始めたのは二年ほど前だが、ちょうどその頃、一つの事件があったのだ。
ある朝、雪穂に呼び出されて、都内にある小さなビジネスホテルに行った。なぜ彼女がそんなところに泊まっていたのかは、後で知ることになる。
雪穂は、それまでに誠が見たことのないような真剣な顔つきで彼を待っていた。
「これを見てほしいの」といって彼女はテーブルの上を指した。そこには煙草の半分くらいの長さの、透明な筒が立てて置かれていた。中に少量の液体が入っている。「触らないで、上から覗いて」と彼女はいい添えた。
誠がいわれたように覗くと、筒の底に小さな赤い二重丸が見えた。そのことをいうと、雪穂は黙って一枚の紙を差し出した。
それは妊娠判定器具の取扱説明書だった。それによると、二重丸が見えることは、陽性であることを意味する。
「朝起きて最初の尿で検査しろってことだったの。あたし、結果をあなたに見て欲しかったから、ここに泊まったの」雪穂はいった。その口ぶりから、彼女自身は妊娠を確信していたのだと窺えた。
誠が余程暗い顔をしていたのだろう、雪穂は明るい口調でいった。「安心して。産むなんていわないから。一人で病院にだって行けるから」
「いいのか」と誠は訊いた。
「うん。だって、まだ子供はまずいものね」
率直なところ、雪穂の言葉を聞いて誠は安堵《あんど》していた。自分が父親になるなどということは、想像もしていなかった。したがって、そういう覚悟があるはずもなかった。
誠にいった通り、雪穂は一人で病院へ行き、密かに堕胎手術を受けた。その間一週間ほど姿を見せなかったが、その後はそれまでと同じように明るく振る舞った。彼女のほうから子供のことを口にすることはなかった。彼がそれについて何か尋ねようとしても、彼女はその気配を察知するらしく、いつも先にかぶりを振ってこういうのだ。
「もう何もいわないで。もういいから。本当にいいから」
このことをきっかけに、誠は彼女との結婚を真剣に考えるようになった。それが男の責任だと思ったのだ。
しかし、と誠は今になって思う。もっと大事なものを、あの時の自分は忘れていたのではないか――。